第2話 星の名前
次の夜も、真尋は午前2時の交差点にいた。自転車を停め、歩道の縁石に腰を下ろす。信号機は変わらず赤と緑を繰り返し、遠くのコンビニの明かりが夜の闇に滲んでいる。空を見上げると、雲の隙間に星がちらりと見えた。昨夜、永井千織と話した時間が頭をよぎる。あの軽やかな声、星の話、ノートに書かれた小さな文字。彼女の笑顔は、どこか懐かしい疼きを和らげてくれた。
「やっぱり来たんだ」
声に振り返ると、千織がそこにいた。同じ制服姿で、肩にカバンをかけ、いつものノートを手に持っている。髪を耳にかけながら、彼女はにこっと笑った。
「千織こそ。ほんと、こんな時間にここ来るんだな」
真尋は少し照れながら答えた。千織は縁石に腰を下ろし、ノートを開いた。
「だって、星見るならここが一番だから。真尋くんも、約束守ってくれて嬉しいよ」
「約束って、別にそんな大げさな……」
「ふふ、照れなくていいじゃん。ほら、今日の空、ちょっと雲多いけど、いい星見えるよ」
千織は空を見上げ、指で空の一角を指した。真尋もつられて見上げる。雲の切れ間に、明るい星が一つ、力強く輝いていた。
「あれ、シリウス。知ってる?」
千織の声に、真尋は首を振った。
「名前くらいは聞いたことあるけど、よく知らない」
「シリウスはね、夜空で一番明るい星なの。おおいぬ座のアルファ星。ギリシャ語で『輝くもの』って意味。なんか、カッコいいよね」
千織の目は星を追うようにキラキラしていた。真尋は彼女の横顔を見ながら、昨夜のオリオンの話を思い出した。彼女の星の話には、ただの知識以上の何かがある気がした。
「千織って、なんでそんなに星好きなの?」
真尋の質問に、千織の手が一瞬止まった。彼女はノートに鉛筆で小さな星の図を書きながら、軽く笑った。
「んー、昔からかな。小さい頃、よく夜空見てたの。誰かと一緒に……まあ、なんとなくね」
「誰かと?」
真尋が思わず聞き返すと、千織は少し目を伏せた。
「うん、家族とか、友達とか。ほら、子供の頃って、夜ってなんか特別じゃん?」
彼女の声は明るかったが、どこか無理をしているように聞こえた。真尋はそれ以上追及せず、話題を変えた。
「俺も、子供の頃はよく星見てた。田舎のじいちゃんの家で、夏休みに。空がすげえ広かった」
「いいな、それ! 田舎の星空って、めっちゃキレイでしょ? 今度、真尋くんの星の話も聞かせてよ」
千織はそう言って笑ったが、真尋の胸にはあの夏の記憶がよみがえった。親友と寝転がって星を見た夜。その笑顔。その声。そして――。真尋は首を振って記憶を振り払った。
「ねえ、真尋くん。星に名前つけるの、楽しいと思わない?」
千織が急に言った。彼女はノートに「シリウス」と書き、その横に小さなハートを添えた。
「名前つけるって、星に? もう名前あるじゃん」
「うーん、正式な名前じゃなくてさ、勝手に呼ぶの。例えば、シリウスを『夜の王様』とか、『遠い友達』とか。自分だけの名前で呼ぶと、なんか親しみ湧くじゃん」
「千織らしい発想だな。じゃあ、俺も考えてみるか」
真尋は空を見上げ、シリウスを見つめた。輝く光は、どこか孤独に見えた。
「『ひとりぼっちの光』……とか、どう?」
真尋の言葉に、千織は目を丸くした。
「え、めっちゃエモいじゃん! 真尋くん、絶対詩人タイプでしょ!」
「やめろって、恥ずかしいだろ」
真尋は笑いながら手を振ったが、千織の笑顔に心が軽くなるのを感じた。
二人はしばらく、星に勝手な名前をつけて笑い合った。千織はベテルギウスを「赤いおじいちゃん」、真尋はアルタイルを「夏のランナー」と名付けた。たわいもない遊びだったが、夜の交差点に二人の声が響くたび、冷たい空気が少し温かくなった。
「そういえば、千織のノート、いつも持ち歩いてるの?」
真尋がふと尋ねると、千織はノートを胸に抱いた。
「うん、これ、星の記録だから。いつ、どこで、どんな星を見たか、全部書いてるの。ほら、見てみる?」
彼女はノートを差し出した。真尋がページをめくると、星座のスケッチや日付、短いメモがぎっしり。あるページに、「2024年3月15日、交差点、シリウス、曇りの夜、でも心は晴れ」と書かれていた。真尋はハッとした。2024年3月15日――あの日のことを思い出した。交差点で感じた、胸の締め付けられる感覚。だが、千織がすぐにノートを取り戻した。
「やば、恥ずかしいやつ見られた! ダメダメ、もっとカッコいいページ見せなきゃ!」
彼女の慌てた様子に、真尋は笑いながらも、違和感を覚えた。あの日、千織もこの交差点にいたのだろうか?
「真尋くん、前の話、覚えてる? 星は過去の光ってやつ」
千織が急に真剣な声で言った。真尋は頷いた。
「うん、なんか変な感じって言ってたよな」
「そう。星の光って、何億年も前に出た光が今ここに届いてるの。ってことはさ、星を見るって、過去を見るってことだよね。なんか、タイムマシンみたいじゃない?」
千織の目は遠くを見ていた。真尋は彼女の言葉に、胸の奥がざわつくのを感じた。過去を見る――それは、思い出したくない記憶を掘り起こすことでもある。
「千織は、過去のこと、よく考える?」
真尋の声は思ったより低かった。千織は一瞬黙り、軽く笑った。
「んー、たまにね。でも、星見ると、過去も悪くないかなって思えるの。だって、こんなキレイな光になるんだから」
彼女の笑顔は明るかったが、真尋はそこに隠された影を見逃さなかった。自分も同じだ。交差点に立つたび、過去の影がちらつく。でも、千織と話している今、その影は少し薄れる気がした。
夜が深まり、風が冷たくなってきた。千織はノートをカバンにしまい、立ち上がった。
「ねえ、真尋くん。次はもっと面白い星の話、聞かせてあげる。約束ね」
「約束、か。いいよ、俺も何か星の名前、考えてくる」
「やった! じゃあ、明日もここで。午前2時の交差点、忘れないでよ!」
千織は手を振って歩き出した。彼女の背中が街灯の光に溶けるのを、真尋は見送った。
自転車にまたがり、ペダルを漕ぎながら、真尋は考える。千織のノートに書かれた日付。あの交差点で感じる奇妙な感覚。シリウスの光は、遠い過去を映しているのかもしれない。でも今夜、千織と話した時間は、確かに今この瞬間のものだった。空を見上げると、シリウスが雲の隙間から力強く輝いていた。
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