君と午前二時にあの交差点で星を見よう
笑う門
第1話 初めての交差点
夜の街は、まるで息を潜めるように静かだった。地方都市の外れ、街灯がまばらに光る交差点。信号機は赤と緑を無意味に繰り返し、アスファルトに淡い影を落としている。
午前2時。
この時間にここにいる理由は、真尋自身にもはっきりとはわからなかった。夜の空気が好きだった。冷たく、どこか透明で、昼間の喧騒を洗い流してくれる。空を見上げると、星が点々と瞬いている。この街では、都会ほどではないにせよ、星は見づらくなっていた。それでも、こうやって立ち止まると、かすかな光の点々が胸の奥をそっと撫でてくれる気がした。
「ねえ、星、好き?」
突然の声に、真尋はハッと我に返った。交差点の向こう、歩道の縁石に腰掛けた少女がこちらを見ていた。長い髪が夜風に揺れ、制服のスカートが少しだけ乱れている。彼女の手には小さなノートが握られ、ペンが挟まっていた。
「え、なに?」
真尋は思わず聞き返した。少女はくすっと笑い、ノートを膝に置いた。
「星。空の、キラキラしたやつ。好き?」
彼女の声は軽やかで、まるでこの交差点が彼女の庭であるかのように自然だった。真尋は自転車を降り、少女の方へ数歩近づいた。
「まあ……嫌いじゃない、かな」
「ふーん、曖昧な答えね」
少女はそう言うと、空を見上げた。彼女の瞳に、星の光が映っているように見えた。
「俺、水野真尋。で、君は?」
真尋が名乗ると、少女は少し驚いたように目を見開き、すぐに笑顔に戻った。
「
「いきなり名前呼び?」
「だって、水野さんって堅苦しいじゃん。夜の2時にこんなとこで会うんだから、もっと気楽でいいよね?」
千織の口調は軽快で、どこか人を引き込む力があった。真尋は少し戸惑いながらも、彼女の隣に自転車を停め、歩道に腰を下ろした。
「で、なんでこんな時間にここにいるの?」
真尋の質問に、千織はノートをぱたんと閉じた。
「星を見るため。ほら、昼間だと空が明るすぎるでしょ? 夜なら、ちゃんと見えるから」
「星か……なんか、意外とロマンチックなんだな」
「ロマンチック? ふふ、真尋くんって面白いね。私、別にそんなつもりじゃないよ。ただ、星が好きだから、見てるだけ」
千織の言葉には、どこか本心を隠しているような響きがあった。真尋はそれを感じ取りながらも、深く追及しなかった。
「真尋くんは? なんでこんな時間に交差点にいるの? 自転車でさ、なんか目的ありそうだけど」
千織の目は鋭く、まるで真尋の心の奥を覗き込むようだった。真尋は一瞬言葉に詰まり、誤魔化すように笑った。
「いや、ただ……寝れなくて、ちょっと走ってただけ」
「ふーん、寝れない夜か。なんか、青春っぽいね」
千織はそう言って、また空を見上げた。
二人の会話は、まるで古い友達のようになんとなく続いた。千織は星の話を始めた。オリオン座の三つ星、冬の大三角、シリウスの輝き。彼女の知識は驚くほど豊富で、真尋はただ聞き入るしかなかった。
「ねえ、真尋くん、知ってる? 星って、実は何億年も前の光なんだよ。今見てる光は、遠い遠い過去のもの。なんか、変な感じしない?」
千織の声は柔らかく、どこか切なげだった。真尋は彼女の横顔を見ながら、胸の奥に小さな疼きを感じた。
「過去の光、か……確かに、変な感じだな」
「でしょ? だから、星見るとさ、なんか色々考えちゃうんだよね。過去とか、未来とか」
千織はそこで言葉を切り、ノートを手に取った。彼女はページをめくり、鉛筆で何か書き始めた。真尋が覗き込むと、星座の図と小さなメモがびっしり書かれていた。
「それ、星の記録?」
「うん。どの星がどこにあったか、とか、どんな気分で見たか、とか。バカみたいでしょ?」
「いや、いいと思う。なんか、君らしい」
真尋の言葉に、千織は少し照れたように笑った。
千織のノートには、星座の名前や日付だけでなく、短いフレーズが書き込まれていた。「あの夜、シリウスがやけに明るかった」「雲の隙間にベテルギウス、でも心は曇り」。真尋はそれを読んで、千織の内面に何か深いものがあると感じた。
「千織って、詩人みたいだな」
「え、なにそれ! やめてよ、恥ずかしいじゃん」
千織は笑いながらノートを隠したが、その笑顔にはどこか寂しさが混じっていた。真尋はふと、昔のことを思い出した。誰かと夜に話したこと、交差点で立ち止まったこと。でも、その記憶はすぐに霧のように消えた。
「真尋くん、オリオンの話、知ってる?」
千織が急に話題を変えた。真尋は首を振ると、彼女は目を輝かせて話し始めた。
「オリオンって、ギリシャ神話の狩人なの。めっちゃ強くて、でも恋に破れて死んじゃう。で、神様が空に上げて、星座にしたんだって。なんか、悲しいよね」
「悲しいけど、星になって永遠に輝いてるなら、悪くないのかもな」
真尋の言葉に、千織は少し驚いたように彼を見た。
「真尋くん、意外とロマンチスト?」
「いや、ただなんとなく……」
真尋は照れ隠しに笑ったが、千織の言葉が胸に残った。星が過去の光なら、オリオンの物語もまた、遠い誰かの悲しみを映しているのかもしれない。
交差点の信号は、変わらずに赤と緑を繰り返していた。遠くでトラックのエンジン音が響き、夜の静寂を一瞬破る。真尋はふと、この交差点に立つたびに感じる奇妙な感覚を思い出した。胸の奥が締め付けられるような、でもどこか懐かしい感覚。千織もまた、時折空を見上げるのをやめて、交差点の地面を見つめることがあった。
「この交差点、なんか変な感じしない?」
真尋が思わず口にすると、千織はハッとしたように彼を見た。
「変な感じ? 例えば?」
「いや、なんでもない。気のせいかも」
真尋は誤魔化した。千織は少し考え込むように黙り、すぐに笑顔に戻った。
「まあ、夜の2時だし、変な感じがしてもおかしくないよね」
その夜、二人は1時間以上話し込んだ。学校のこと、好きな音楽、最近見た映画。たわいもない話題が、夜の静けさの中で特別なものに感じられた。千織は明るく振る舞いながらも、時折遠くを見るような目をした。真尋もまた、彼女に自分の過去を話す気にはなれなかった。
「そういえば、千織の家族ってどんな人?」
真尋が何気なく尋ねると、千織の手が一瞬止まった。彼女はノートを閉じ、軽く笑った。
「普通だよ。父さん、母さん、んで……まあ、普通」
「ふーん。なんか、姉貴とかいそうだけど」
真尋の言葉に、千織の笑顔が一瞬凍った。彼女はすぐに誤魔化すように髪をかき上げた。
「姉貴ね、いたら面白そうだけど、残念ながら一人っ子なの。真尋くんは?」
「俺も一人っ子。まあ、静かでいいけど、たまに寂しいかな」
真尋はそう言って笑ったが、千織の反応に小さな違和感を覚えた。
夜がさらに深まり、風が冷たくなってきた。千織は立ち上がり、ノートをカバンにしまった。
「ねえ、真尋くん。またここで会えるかな?」
彼女の声は軽いのに、どこか真剣だった。真尋は少し考えて、頷いた。
「会えるよ。俺、よくここに来るから」
「ほんと? じゃあ、約束ね。午前2時の交差点で、星を見よう」
千織はそう言うと、軽く手を振って歩き出した。彼女の背中が街灯の光に溶けていくのを、真尋はただ見つめていた。
自転車にまたがり、ペダルを漕ぎながら、真尋は考える。
千織と話した時間は、まるで夢のようだった。あの交差点に立つたび、胸の奥に疼く何かがあった。でも今夜は、その
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