第2話
眩い光に包まれて、意識が波のように揺れた。音も感触も、現実から少しだけズレた場所を漂っている気がした。
体の重みが、じわじわと抜けていくのを感じる。疲れきった三十五歳の身体から解放されて、十八歳の若さが戻ってきたのだと気づくまでに、少しだけ時間がかかった。
目を開けると、懐かしい高校の教室が広がっていた。静かな朝日が差し込み、黒板には十二月四日の文字が見える。
(……成功した)
教室にはまだ数人しかおらず、静かな空気が満ちていた。
「……戻ってきたんだ」
そう呟いてみると、響いたのは、やけに若い声だった。思わず手を見下ろす。しわがない、柔らかな肌。窓に反射した自分の顔は、間違いなく十八歳の秋月蓮だった。
(本当に、戻ってきたんだ)
クラスメイトたちが、ぽつぽつと登校してくる。俺の姿を見た誰かが目を見開き、隣の友人に小声で何か囁いている。
(そうだ……今日は、不登校だった俺が学校に戻ってきた日)
あの頃、何がそんなに怖かったんだろう。人の目?噂話?それとも、自分自身?
明確な理由は、思い出せない。ただ、教室に入るたびに息が詰まり、誰とも言葉を交わせなくなっていった。逃げ出すことだけが、唯一の選択肢のように思えた。
教室の空気は、どこかぴりついている。目を伏せたまま席についた俺に、視線が集まっているのがわかる。
「……秋月じゃない?」
「え、ほんとに?いつぶり……」
「誰とも話してなかったよね……」
耳を塞ぎたくなるような声だった。それでも、表情は変えない。気づいていないふりをして、鞄からノートを取り出した。
俺は、もう、あの頃の俺じゃない。そう言い聞かせても、この空気にはどうしても馴染めなかった。腫れものに触れるような気まずさが、教室全体にうっすらと漂っている。それも仕方ない。いきなり戻ってきたのだから。
昼休み。かつての孤独を思い出して、教室を離れた。どこへ行こう、と考えたわけじゃない。ただ、気づけば足が音楽室へと向かっていた。
歩くたびに、頭の奥がきしむような違和感があった。これも、リープの副作用なのかもしれない。けれど、今はそんなことよりも、ただ彼女に会いたかった。
音楽室の前に立つと、中からピアノの音が聴こえてきた。柔らかくて、優しい旋律。懐かしいような、心をそっと撫でられるような……。
(……この音、間違いない)
そっと扉を開けた。
冷えきった空気の中、窓際にだけ、やわらかな光が差している。ピアノの前には、ひとりの少女が座っていた。
朝比奈紗季。かつて、心を寄せた人。
その横顔を見た瞬間、言葉にならない衝動が喉元までせり上がって──思わず、目頭が熱くなる。涙がこぼれそうになるのを、ただ必死にこらえた。
やがてピアノの音が止まり、紗季はゆっくりと顔を上げた。
そして──
「秋月くん、おかえり」
十七年前と、まったく同じ言葉だった。それだけなのに、ずっと俺が戻ってくるのを待っていてくれた気がした。
「……ただいま」
「来てくれて、うれしいよ。ちょっと、心配してた」
「……ごめん。いろいろと、迷ってた」
「ううん。会えてよかった」
彼女の声は、心にそっと手を差し伸べてくるような、静かなぬくもりがあった。
ゆっくりと歩み寄ると、紗季はピアノの前に座ったまま、俺の方を見て微笑む。
「ねえ、一緒に弾く?二人で弾ける曲、あるよ」
指差した楽譜に、ふたりの季節というタイトルが見える。
「俺、下手だけど……」
「大丈夫。秋月くんなら、ちゃんと弾けるよ」
根拠なんて、たぶんない。なのに、その言葉には、目をそらしたくなる強さがあった。
「……ありがとな」
紗季の隣に座り、鍵盤に指を置く。ぎこちない音の連なりが、少しずつ、調和していった。この音が続くのなら、やり直す価値はきっとある。そう思えた。
* * *
雪の降る朝、窓際に立ちぼんやりと外を眺める。白い吐息が、ガラスの表面を曇らせていた。
「……夢じゃないんだな」
自分の声で、はっと我に返った。昨日まで三十五歳のフリーターだった俺が、いまは十八歳の高校生。なんて、うまく呑み込めるわけがない。
「おーい、蓮!朝ごはん食べないの?」
階下から、姉の七海の声が響いてくる。
「今行く!」
食卓に着くと、七海がトーストとスクランブルエッグの皿を差し出してくる。
「遅いよ。冷めちゃうじゃん」
大学生の七海は、朝早くから授業があるらしい。エプロン姿で料理を運ぶ彼女の姿を見て、思わず懐かしい気持ちになった。
「悪い。ちょっと考え事してて」
「ふーん」
不思議そうな目で、七海がこちらを覗き込んでくる。
「蓮。学校どうだった?」
俺にとって、姉はもう十年以上も会っていなかった存在だ。進学して、就職して、いつの間にか連絡も取らなくなって、それっきりだった。
「普通。……友達とも話せたし」
「そう、よかった」
七海の顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶ。きっと、不登校だった元の俺のことを心配していたんだろう。
食事を終えて玄関へ向かうと、背中に声が飛んできた。
「あ、そうだ。今日って、進路希望の提出日だったよね?昨日言ってたじゃん」
足が止まる。進路希望──たしか十七年前の俺は、特に深く考えずに、適当に書いて出した気がする。
「ああ、そうだった」
「何て書くの?前は理系って言ってなかった?」
そんなこともあったっけ。すっかり忘れてた。この頃の俺は、理系に進もうとしていたのか。
「まあ、考え中」
そう言ってごまかしながら、玄関のドアを開けた。
まだ朝の空気は冷たく、頬に当たる風がわずかに身を引き締める。制服のポケットに手を入れたまま、淡々と歩き出した。
角を曲がり、道なりに進んでいくと、前方に見覚えのある鉄柵の門が現れた。あの頃と変わらない。
足を止めることなく、そのまま門をくぐる。昨日もここを通ったはずなのに、足元にはまだ少しだけ、他人の靴を借りているようなぎこちなさが残っていた。
靴箱を開け、白い上履きを取り出した。かかとを踏まないように、静かに足を入れる。
「よう、蓮」
肩に手が触れた瞬間、心臓が跳ねた。振り返ると、そこに立っていたのは、霧島だった。
不登校だった頃も連絡をくれて、俺にとっては数少ない、ほんとうの友達だった。そして、俺を過去へとリープさせた張本人でもある。
でも今、目の前にいるこの霧島は、ただの高校生だ。俺の中身が三十五歳の秋月蓮だということを、知るはずもなかった。
「ああ、おはよう」
声を返すうちに、胸の鼓動も、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
「……戻ってこれたんだな、よかったよ」
「悪い、心配かけて」
「気にすんなって。あ、進路希望、もう書いた?」
霧島が差し出した用紙には、音大志望の文字があった。
「やっぱ音大か」
「まあな。親には理工学部行けって言われてるけどな……」
霧島は、ギターの腕も相当だった。頭もよくて、社交的で、周囲からの信頼も厚い。どこに出しても恥ずかしくない、そんな優等生だった。──なのに、どうして、あんな装置を作ったんだろう。こいつの身に、いったい何があったのか。
「あれ?秋月くん。と、霧島くん」
振り返ると、紗季が立っていた。
「朝比奈さん……」
「そういえば、昨日はなんで音楽室にいたの?」
なんと答えればいい。十七年前、俺は不登校気味で、久しぶりに登校して、人目を避けて音楽室へ逃げ込んだ。でも昨日は、ただ紗季に会いたくて、あそこへ行った。
「ちょっと……静かな場所が欲しくて」
「そっか。私も時々行くんだ、あそこ。落ち着くよね」
彼女は、あの日と変わらぬ微笑みを浮かべていた。
「紗季、お前も進路決まったのか?」
霧島が会話に加わってくる。
「まだ迷ってるの。看護師か、教師か……」
「お、いいじゃん!どっちもお前らしいな」
紗季は照れくさそうに笑って、小さくうなずいた。
「うん。人の役に立つ仕事がいいかなって」
そんなふうに迷いなく言えるところが、ちょっとだけ眩しかった。
「秋月くんは?」
「俺は……」
言葉に詰まる。前の人生では、適当に書いて提出した紙切れ。でも今は違う。やり直すチャンスがある。
「まだ決めてない」
「そっか。でも焦らなくていいと思うよ。」
「そうだな、ありがとう」
校舎のざわめきの中で、俺は静かに考えていた。この時間に戻ってきた意味。やり直すべきこと──それは、なんなのか。
放課後、俺は図書室で進路について調べていた。十七年前とは違う選択肢を、ちゃんと考えてみたくなった。今なら、きっと間に合う気がしたから。
ふと、近くに誰かの気配を感じて顔を上げる。
「あ、やっぱり秋月くんだ」
「朝比奈さん」
「ごめんね、邪魔したかな?」
「いや、そんなことないよ」
紗季は隣に腰を下ろし、俺が開いていた大学案内に目をやった。
「人文学部?秋月くんって理系じゃなかったっけ」
少し驚いた。覚えてたんだな、そんなこと。
「そう思ってたんだけど……視野を広げようと思って」
「うん、それってすごくいいことだと思う」
紗季は、頬にかかる髪を指先で払って、そっと耳にかけ直した。
「……それなら私も最近、視野を広げたいなって思ってて」
「どういう意味?」
「高校生活も、もうすぐ終わるでしょ?だから……いろんなこと経験したいなって」
紗季は、そばの本棚に視線を向けて、一冊の背表紙にそっと指を添えた。
「卒業式のあと、謝恩会あるの……知ってる?」
「うん。たしか体育館でやるって」
「それでね……そこで何かやろうって思ってさ。最後に、思い出に残ることがしたくて」
「たとえば?」
「歌とか、演奏とか。簡単なものでいいんだけど」
紗季は、少し言いにくそうに言葉を続けた。
「私ね、ピアノの伴奏で歌えたらいいなって思ってて。でも、ひとりじゃ緊張しそうだなって」
「それで、俺に?」
「うん。昨日、一緒に弾いたでしょ?秋月くん、意外と上手じゃんって思って」
十七年前には、こんな展開はなかった。紗季から謝恩会に誘われるなんて。どう返せばいいのか、言葉がうまく見つからなかった。
「不安だったら、一緒に音楽室で練習しない?明日の放課後とか」
正直、戸惑いはあった。でも──やり直すために、ここへ戻ってきたんだ。十七年前、伝えられなかった想いを、今度こそ彼女に届けるために。この誘いを断る理由なんて、どこにもなかった。
「わかった。やってみる」
「本当?ありがとう!」
嬉しそうに笑う紗季を見て思った。
やってみよう。不器用でも、格好悪くても。それが、やり直すってことだろう。
「……あ、そうだ」
紗季が思い出したように鞄を開き、一枚の封筒を取り出して差し出す。
「これ、歌詞と楽譜。明日から練習できるように、準備しておいてね」
「ありがとう。助かる」
封筒を受け取りながら目を落とすと、端に小さく音符のイラストが描かれていた。
「秋月くんと一緒に演奏するの、楽しみにしてる」
紗季はそう言うと、くるりと背を向けて去っていく。その足取りはどこか弾むようだった。
家に帰り、電子ピアノのスイッチを入れる。かすかに震える指で、ドの音を押す。澄んだ音色が、静かな部屋にすっと広がった。
紗季から渡された楽譜を広げ、ゆっくりと音を追う。ぎこちない指の動き。でも、不思議と心が落ち着いていく。
「ノックしたけど返事なかったから……あれ?」
部屋に入ってきた七海が、俺の姿を見て、目を丸くする。
「ピアノ、久しぶりじゃない?どうしたの?」
鍵盤から手を離し、姉の顔を見る。
「明日から、友達と練習することになって」
「へぇ〜」
七海が、意味ありげな笑みを浮かべる。
「女の子?」
「そうだけど」
「珍しいね。蓮が女の子と何かするなんて」
たしかに、不登校だった前の俺は、友達ともまともに関わっていなかった。七海の目には、今の俺が別人に映ってもおかしくない。
「別に、そんなに驚くことじゃ」
「でも嬉しいよ。蓮が少しずつ前向きになってるみたいで」
七海はやわらかく微笑むと、そのまま部屋を出ていった。
静けさが戻った部屋で、俺はゆっくりと椅子に座り直し、ピアノの前に向き直る。
「……朝比奈紗季、か」
再会と思いがけない誘い。これがやり直しの始まりなのかもしれない。
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