ラストリープ ― 青春×タイムリープ×ミステリー
和知リョウスケ
第1章
第1話
「……蓮くん、おかえり」
その声は、どこまでも澄んでいた。混じり気がなく、静かで、穏やかで。
光に包まれた声の主を探して視線を向ける。顔は見えなかったが、その輪郭は確かに、懐かしい記憶と重なった。
「……俺、──」
声を返そうとした瞬間、意識が現実へと引き戻された。
「が、はっ……!」
喉の奥から、乾いた声が漏れる。汗で冷たくなったシーツが肌にへばりつき、背中には、鉛を背負っているような重さがのしかかっていた。
時計の針は、午前五時過ぎを指している。秒針の音だけが、静寂の中でやけに大きく響いていた。
「……また、あの夢か」
ゆっくりと身を起こすが、体のだるさも気分の重さも取れていない。こんな朝を、何度迎えてきただろう。
気が付けば、三十五歳になっていた。毎日、家とバイト先を往復するだけで一日が終わり、誰かと深く関わることはない。何かを成し遂げることもない。ただ日々を消化するだけの生活だ。
唯一、ささやかな楽しみと言えば、たまに訪れる中古レコード屋だったか。何も考えずにジャケットを眺め、掘り出し物を見つける。ジャズと間違えて買ったフュージョンの盤に、少々ハズレを引いた気分になりながらも、二曲目だけは妙に耳に残っていて、捨てられずに棚に残ったりする。
好きと呼べるほどでもない。でも嫌いでもない。そんな曖昧なものに囲まれていると、不思議と心が落ち着いた。
とはいえ、そんな余裕も、今はほとんど残っていない。家賃の振り込み期限まで、あと七日しかない。先月は遅れてしまっているから、今月こそきっちり払わなければならない。そんなことを考えていると、胃のあたりがずしりと重くなってくる。
乾いた喉に水を流し込み、鏡の前に立つと、ひどくやつれた顔が映っていた。
「……何やってんだ、俺は」
問いかけたところで、返事なんてあるわけなかった。
日が傾く頃、ようやく重たい腰をあげる。
今日は、旧友と会う約束があった。今さら、俺を呼び出すなんてどういうつもりなんだろう。引っかかってはいたが、とりあえず約束の場所には向かうことにした。
駅前のファミレス、高校時代によく入り浸っていた場所だ。懐かしさと、どこか気まずさのようなものが入り混じって、足取りがほんのわずかに鈍った。
店に入ると、窓際の席でひとりの男が、こちらに向かって手を挙げていた。
「よう、久しぶり」
霧島悠一。高校時代の親友で、かつてのバンド仲間だった。
「……久しぶりだな」
席に着いて、じっと霧島の顔を見る。整った顔立ちに、どこか神秘的な空気をまとったその姿は、昔とあまり変わらないように見えた。
「ずいぶん老けたな、蓮」
「はは。お前は変わんねえな」
「いや、俺だって苦労してる。見えないだけさ」
言葉は交わしてるけど、昔みたいな空気には戻れなかった。
「で、何の用だよ。急に連絡なんかしてきて」
そう言うと、霧島の表情がほんの少しだけ曇る。
「実は……ちょっと話があってな。最近、ある研究に関わってるんだ」
「研究?お前が?」
「ああ。音響工学と脳波の関係……なんだけど」
霧島は、専門的な話を始めかけて、でも途中でやめた。
「いや、今日はそれを話しに来たわけじゃない。お前が元気か確かめたかっただけだよ」
「元気そうに見えるか?」
つい、ぶっきらぼうに返してしまう。
「……正直、見えないな」
「だろ」
「ピアノは、まだやってるのか?」
「そんなもん、とっくに辞めた」
霧島はコーヒーをひと口含み、それからまっすぐにこちらを見つめた。
「もし、人生やり直せるなら、何がしたい?」
唐突な問いに、少し驚いた。
「は?何言ってんだよ」
「ただの仮定さ。もし、過去に戻れたら……何を変える?」
何を、って──考える間もなく、ひとつの光景が頭をよぎった。音楽室の扉を開けたあのとき。高校三年の冬、不登校から復帰して、久しぶりに学校に行った日だった。
──秋月くん、おかえり。
そう言って、笑いかけてくれた少女がいた。飾り気のない、まっすぐな声。凍りついていた心が、あの一言で、少しだけ解けた気がした。
「……蓮?」
霧島の声で、意識が戻る。
「ああ、ちょっと思い出してた」
「で、もし戻れたら何がしたい?」
「……あいつに、会いたいな」
「あいつ?」
「朝比奈紗季。覚えてるか?」
その名前を出した瞬間、霧島の顔がわずかにこわばった。動揺を押し隠すように視線を落として、それから、ゆっくりとうなずいた。
「……ああ。もちろん、覚えてるよ」
「もし、もう一度だけ会えるなら、ちゃんと伝えたいことがある」
「何を?」
言えなかった。言葉が浮かんで、喉まで来て、でも出てこなかった。
「過去は、変えられないもんな」
「そうかな」
霧島の声には、気のせいでは済まされない、不思議な確信があった。
「なあ、何か隠してないか?」
霧島は静かに微笑んだ。
「今度、研究室に来いよ。見せたいものがある」
「研究室?」
「お前のためになるかもしれない」
意味ありげな一言を口にするだけで、霧島はそれ以上、何も語ろうとはしなかった。
「……わかった。また連絡してくれ」
俺はそれだけ言って、店をあとにした。
アパートに戻っても、どこか落ち着かない気分だった。霧島の言葉が、頭の奥にひっかかったまま、気づけば押し入れに手を伸ばしていた。
見つけたのは一枚の写真。高校の卒業式の日に撮ったものだ。俺と紗季、それに霧島が並んで写っている。写真の紗季は、真ん中で明るく笑っていた。
「あの頃に戻れたら……」
ベランダに出て空を見上げてみたが、星は見えなかった。この街じゃもうずっと、光なんて届かない。情熱も、目標も、愛も。何もかも、どこかで落としてきた。
「やり直せるなら……」
ふと、部屋の隅にある電子ピアノに手を伸ばした。埃を払い、鍵盤に指を置く。かつて夢中になった音。誰かに届けたかった音。でも、今はもう、何も鳴らない。
霧島からの連絡を待つしかない。
過去になんて戻れるわけないのに、胸の奥では小さな希望が、かすかに揺れていた。
* * *
薄暗い廊下を進むたび、足音が乾いた床に吸い込まれていく。古びた雑居ビルの天井では、蛍光灯が不規則に点滅し、どこかから、かすかな機械の唸りが響いている。
扉には、「霧島研究室」と手書きの紙が無造作に貼られていた。
深く息を吸い込み、ノックすると、その音がやけに大きく響く。
「空いてるよ」
覚悟を決めて扉を開けると、思っていたよりもずっと広い空間が広がっていた。無数の機械が無造作に並べられていて、その中心に、ひときわ異質なものがあった。丸みを帯びたその装置は、青白い光をゆっくりと脈打たせていた。
「よく来たな、蓮」
装置のすぐ隣に、霧島が立っていた。白衣をまとったまま、じっとこちらを見つめている。
「これが……見せたいものか?」
「そうだ。まあ、まずは座ってくれ」
促されるまま、椅子に腰を下ろす。目は自然と、装置へと吸い寄せられていく。
「……なんだこれは。病院とかで使うやつか?」
「いや。記憶送信装置だ」
あまりにさらりと言われて、一瞬言葉を失った。
「記憶……を、送信?」
「ああ。記憶と意識を過去の自分に送ることができる。……まあ、いわゆるタイムリープマシンってやつだ」
そんな話、信じられるわけがない。けれど、霧島の目は冗談を言うそれじゃなかった。
「なんでそんなもん、作ったんだ」
霧島の表情がわずかに曇った。
「理由は……今は話せない。……すまない」
語尾に込められた硬さが、すべてを拒んでいた。それ以上は聞けなかった。
「で、もし俺がこれを使ったら、どうなる?」
少しだけ目を伏せてから、霧島は静かに答える。
「今の蓮が、昔の蓮に上書きされる」
「……過去に戻れるってことか?」
「そうだ。今のお前が、記憶を持ったまま、過去の蓮の肉体にリープする」
ファミレスでの会話が脳裏に蘇る。霧島が「人生をやり直せるなら何がしたい」と問いかけてきた、あの言葉の真の意味がようやく理解できた。
「その後はどうなる?」
霧島は、わずかに言葉を選びながら続けた。
「時間が経つにつれて、お前の意識は、過去の体に馴染んでいく。リープ前の記憶は、その過程で霧のように薄れ、いずれお前はリープしたことさえ忘れる。そして、昔の蓮として生きていくことになる」
沈黙のなか、霧島は静かに装置に触れた。
「誤解しないでほしい。俺は、これを使えと言ってるわけじゃない。ただ、願ってるよ。お前が、もう一度、生き直す道を選んでくれることを」
選ぶ?今さら何を。空っぽの俺に、そんな資格があるとも思えなかった。
「……俺に、そんな道が残ってるように見えるか?」
「記憶送信で遡れるのは、およそ二十年だ。十分すぎるほどの道が、お前には残ってる」
霧島の言葉は静かだったが、その奥に熱を感じた。
「だが、伝えておくべきこともある。リープには、救いと同じくらい、破滅の可能性がある」
「破滅……?」
反射的に口をついて出た声に、霧島はうなずいた。
「過去を変えれば、新しい可能性が拓けるかもしれない。けど、本来存在しないはずのものが生まれたり、あるべきものが失われたりもする。何が起こるかなんて、誰にも分からない」
その装置は、ただそこにあるだけなのに、得体の知れない意志を持っているように感じた。
「そして変わった世界は、必ずしもお前の願った通りにはならない。いや、きっとならない。だから、覚悟してほしい。この先に待っているのは、奇跡か絶望か、どちらにしても、その重さを、背負うのはお前自身だ」
俺は立ち上がり、装置に近づいた。そっと手をかざすと、青白い光が肌に反射して、冷たくも、優しくも感じられた。
「保証も、救いも、ないってことか」
「そうだ。それでも、選ぶのはお前だ」
室内には、ただ静けさだけが満ちていた。
「聞かせてくれ。なぜ、これを俺に?」
霧島は視線を落とし、ほんの一瞬だけ黙った。
「……久しぶりに会ったとき、お前の目を見て思った」
「目?」
「ああ。まるで、全部終わったような目をしてた」
図星すぎて、苦笑いしか出てこなかった。
「それに……会いたい人がいるんだろ?」
霧島は、どこか力の抜けたような笑みを浮かべた。
「まあ、一応、建前もある。実験データを取らせてもらう……なんてな。冗談だよ」
その目の奥には、冗談じゃない本気が見えていた。
俺は黙って装置を見つめていた。何もかも終わったような目。それは、今の俺そのものだった。ただ時間をやりすごすように生きて、何も変わらず、何も変えず。
でも、もし朝比奈紗季にもう一度会えるなら。いや、違う。変わりたいんじゃない。救われたいわけでもない。本当は──ただ、彼女に会いたい。それだけだった。
「行くよ。俺は過去に戻る」
霧島は静かに頷き、装置の操作盤に向かう。
「いつの時点に戻りたい?」
「高校三年の十二月四日。不登校だった俺が、学校に戻った日」
「……わかった」
霧島は装置の調整を進めながら、こちらを振り返った。
「蓮、本当にいいんだな?」
心臓が、どくん、と鳴った。あの頃の俺に、今の俺を上書きする。世界は変わる。記憶は消えるかもしれない。それでも。
「ああ。後悔はない」
霧島は何か言いかけて、黙った。その目だけが、祈るようにこちらを見ていた。
「これをつけて、ベッドに横になれ」
ヘッドギアを渡され、導かれるままベッドに身を沈める。
「準備はいいか?」
「……ああ」
「カウントダウンを始める。十……九……八……」
あの日に戻る。何も言えなかった、あの自分に戻る。今度は、ちゃんと。
「七……六……五……四……」
「紗季……」
もう一度、彼女に会える。もう一度、やり直せる。
「三……二……一……」
青白い光が世界を包み込む中、意識はゆっくりと遠ざかっていく。
「振り返るなよ、蓮」
霧島の声が、遠くで揺れる。
そして、視界のすべてが白へと溶けていった。
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