第8話 櫛田菜々葉

 櫛田くしだ菜々葉ななははショッピングモールで馴染みの店員に新商品のタッチアップをしてもらっていた。複数のブランドを扱うコスメショップで、櫛田は常連の顧客だった。好きなブランドの新商品が入ると、担当の店員から連絡がくるのだ。


 ──あれ? なんか見たことある……誰だっけ。


 櫛田は頬に粉をはたかれながら、入り口付近にいる人物に目を凝らした。しばらくして同じクラスの地味な生徒だと気づいた。


 ──あの人、メイクとか興味あるんだ。


 向こうはカウンターの奥にいる櫛田に気づいた様子はなく、じっと壁際のコーナーを見ている。櫛田も愛用しているブランドだった。何気なく眺めていると、次の瞬間、素早く伸ばされた手が何かを掴んでバッグの中に消えた。


「え?」


 櫛田は思わず、声に出していた。が、タッチアップ中のため動くに動けない。その一瞬の間に、クラスメイトの姿はなくなっていた。


「どうかしました?」

「あ、いや、大丈夫……」


 万引きを目撃してしまった。櫛田は店員に言うこともできたが、あえてしなかった。


 新商品をいくつか買って包んでもらっている間に、棚の前に行ってみた。リップが並べてあるショーケースの箱が一列だけ奥に倒れている。櫛田はまるで店員がするように、箱を丁寧になおした。


 ──そんなにこれが欲しかったんだ。


 翌日、学校でクラス委員の日野ひの蒼真そうまに聞いてみた。


「あの人って名前なんだっけ?」

「え? あー相模さがみさん?」


 日野は櫛田とは幼なじみだった。


「なんで?」


 日野の疑問はもっともだった。櫛田はこの時まで相模さがみ柚奈ゆうなの名前さえ知らなかったのだ。その日から何気なく相模の様子を観察するようになった。


 櫛田が昼休みに教室で友だちと喋っている時や、教室を移動する時、グループに分かれて活動する時など、相模はいつも一人だった。高校生にもなれば、一人行動をする生徒自体は珍しくない。

 しかし、相模の場合はおろおろと辺りを見回して助けを求める様子なのに、自ら声をかけることはできないといった感じだった。


 ──なにが楽しくて生きてるんだろ。


 ある日、机の上に例のリップが出ていた。櫛田が話しかけると、相模はあきらかに挙動不審になった。その様子が面白くて、何も知らないふりをして友好的に話し続けた。


 相模は櫛田に憧れてリップを買ったと嘘をついた。


 ──ばかみたい。


 連絡先を交換したのは、興味本位だった。

 最初に喋って以来、学校にいる時は目も合わせなかった。時折視線を感じることもあったが、懐かれると面倒だし、仲がいいと思われたくない。


 それでも暇にまかせて送ったメッセージには、すぐに熱心な反応が返ってきた。友だちには送るのがはばかられるような内容も、相模には気にせずに送ることができる。


 翌週、櫛田は相模を家に招いた。

 父とは半別居生活で、母は一週間ほど東京へ遊びに行って帰ってこない。広い家に一人で、友だちと遊ぶのも飽きていた。 


「また盗るつもり?」


 振り向いた相模の笑顔が固まり、目が泳いだ。ぬいぐるみに伸ばされた手が胸元に引き寄せられて、震えている。


 ──そんなに怖いなら、はじめからやらなきゃいいのに。


 櫛田はジュースがのった盆を机に下ろした。


「別に誰にも話してないから。安心して」

「ち、違うの! あの、ごめんなさい。わたし……」


 相模が目に涙をためて、何か言おうとするのを櫛田は遮った。


「あれって楽しいの?」

「え?」


 櫛田は相模の手をとって、強引にソファに座らせる。相模はおぼつかない足取りで机の角にぶつかり、倒れこんだ。


「コスメやぬいぐるみが欲しいなら持っていっていいよ。万引きしたことも口外しない。そのかわり、お願いがあるんだ」


 相模が答えに辿りつく前に、櫛田はささやいた。


「どうせならもっと大きいもの盗ろうよ」

「あ、あの、どういう……」

「相模さんに送ったやつ、あれ、ぜんぶショッピングモールの中にあるの」


 櫛田は安っぽいプリント模様のワンピースに手をのせる。


「一緒に盗ろうよ」

「え? そんな……な、なんで」

「なんでって言われると、わかんないけど……わたしのパパ、ショッピングモールで毎週愛人に買い物してるの。もともとあの土地の所有者だから、周りもみーんなわかってて何も言わないんだよね。ママも知らんぷりだし。なんか悔しいから困らせてやりたいなって」


 半分は事実で、半分は相模の同情を引くための嘘だった。櫛田はただ退屈していたのだ。他に友だちのいなさそうなクラスメイトをそそのかして、スリリングな遊びがしたかった。


「そうだったんだ……」


 案の定、相模は膝に置かれた櫛田の手に、おずおずと自分の手を重ねてきた。


 ──ネイルとか、したことないんだろうなー。


 櫛田はかさついた手をもう一方の手で包むように握り返した。


「ごめんね。こんなこと、相模さんにしか話せなくて……」

「う、ううん! 話してくれてありがとう。わたしにできることならなんでもする!」


 相模の涙はすっかり引っ込んで、頬が紅潮している。頼られたことが嬉しくて仕方ないといった様子だった。櫛田は弱々しく微笑んで、相模に肩を寄せた。


 それからしばらく経った週末、二人は人でごった返すショッピングモールにいた。


「堂々としてたら案外ばれないよ。店員が少なくて、接客してるとき──特に試着室使ってるときを狙うの」

「うん……」


 櫛田は二階の通路から一階を見下ろしながら、隣に立った相模に最後の確認をしていた。騒がしい休日のショッピングモールで、ひそやかに交わされる声に耳を傾ける者はいない。


「それに、盗る瞬間さえ見られなければ大丈夫だよ。間違えて捕まえちゃったほうが大ごとになるから。みんな面倒事は避けたいでしょ」

「そっか……」

「自分の身に降りかからなきゃ、見て見ぬふりする人ばっかりだよ。あ、ほら、今とか!」


 真下にある店の前で、店員が客と喋っている。前を通った客が、つられるように数人入っていくところだった。


「……櫛田さん、わたしたち一緒だよね」

「うん。約束したでしょ。ほら、これわたしだと思って」


 相模のショルダーバッグには、クマのぬいぐるみがついていた。

 背を叩くと、おずおずとした足取りでエスカレーターを降りて行く。しばらくすると、右側の通路から相模の姿が現れた。櫛田が服を貸して、化粧したおかげで姿だけは大人っぽく見える。


 相模は一度店の前を通り過ぎてから、不安げな表情で二階を見上げた。櫛田は視線に圧をこめて、にっこりと微笑んでみせた。それでやっと決意できたのか、おずおずと店の中へ入っていった。


「どんくさ……」


 櫛田は手すりにもたれてため息をついた。急に何もかもが馬鹿馬鹿しくなってきた。あの様子ではうまく万引きが成功するかあやしいところだ。


 案の定、それからしばらく経っても、相模は戻ってこなかった。失敗して捕まったのだろうか。櫛田は手すりの下に屈んで、様子をうかがったが店先に変わりはなかった。下に降りてみようと立ち上がった時だった。


「くしだななはっておねえちゃんのこと?」


 すぐ後ろから声がした。振り向くと、顔のない子どもが立っていた。 

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