第7話 相模柚奈

 相模さがみ柚奈ゆうなが最初に盗んだのはリップクリームだった。ドラッグストアに売っている安いものでなはなく、精巧なケースに入った、持っているだけで胸の高鳴るような特別なリップだ。


「おそろいだね」


 櫛田くしだ菜々葉ななはに話しかけられた時の気持ちは今でも忘れられない。


 櫛田はクラスでも圧倒的な存在感を放つ生徒だった。真っ白な肌にアーモンド形の目、悪目立ちする部分がない整った顔立ちに、すらっとしたスタイル。そのままアイドルにでもなれそうな容姿で、おまけに頭もよかった。


 相模とは何もかもが違う。


 私立の高校に入って一年、友だちらしい友だちもできず、休み時間になればクラスの隅で寝たふりをしている相模と違って、櫛田はいつも賑やかな集団の中心にいた。


「あ、あの……これ、実は櫛田さんに憧れて……このあいだショッピングモールに行った時に、か、買ったんだ」


 盗んだ、などとは口が裂けても言えない。相模は憧れのクラスメイトに話しかけられたことに動揺しながら、必死に返事をした。


「え? じゃあ、わたしが使ってるの見て買ったの?」

「ご、ごめん……気持ち悪いよね。わざわざ買いに行ったわけじゃなくて……偶然見つけちゃって。つい、あの、すごくかわいかったから」


 相模は櫛田に問い返されて、言い訳のような言葉を重ねた。


「えーなんでー? いいじゃん。嬉しいよ」


 笑うと涙袋の目立つ、小動物のような顔がすぐ目の前にある。相模の机の上にさらさらの髪の毛の先が落ちた。ふわりといい匂いがする。


「色も同じ?」

「え、どうだろ……」


 正直なところ、盗むという行為に必死で細かいところは見ていなかった。相模はコスメに詳しいわけでもなく、帰ってから一度中を出して見たけれど、実際につけてみる気にもならなかった。


 櫛田とおそろいであるというそれだけが重要だったのだ。


「見てもいい?」

「う、うん!」

「色は違うんだ」


 櫛田は自分のポケットから同じリップを取り出して、中を見比べた。きらびやかなパッケージが、きめの細かい華奢な指先に似合っている。本来あるべきところに戻ったという気がした。


「へーこの色も使いやすそうだね」


 相模には似たように見えるピンク色の微妙な違いは分からなかった。

 それでも、メイク動画や流行のコスメの話に興味がある振りをして、大げさな相槌を打った。


「今度、一緒に買い物行こうよ!」


 櫛田は連絡先を交換すると、最後にそう言って相模の席を離れていった。

 その日はずっと夢の中にいるような気持ちのまま、家に帰った。憂鬱で単調な日々が突如として鮮やかに色づいた。


 相模は母子家庭で、狭くて古いアパート暮らしだった。母は仕事で夜遅くに帰って来るので、学校から帰るとまず洗濯を回して、食事の支度をする。ひと息ついてスマホを見ると、櫛田からメッセージが来ていた。


『来週うちに来ない?』


 夢ではなかった。半分くらい社交辞令で、連絡先を交換したものの本当に遊ぶことなどないだろうと思っていた。

 相模は大急ぎで返事をした。足元がふわふわして落ち着かない。リップを手に入れただけで、憧れのクラスメイトと急接近できるなんて──万引きをした罪悪感は消え去り、高揚した気分だけが残った。


 約束の日、精一杯のオシャレをして、櫛田に指定された待ち合わせ場所へ向かった。学校では連絡先を交換して以来、言葉を交わすことはなかった。

 それでも、メッセージのやり取りは続いていた。櫛田から送られてくるスクショや動画は深夜に来ることが多かった。だいたいが流行のファッション、メイク、アイドルのインタビューなどで、相模はその全てに目を通し、頭に叩き込んだ。


「ごめん、待った?」


 駅前に現れた櫛田は白いTシャツに帽子をかぶったラフな姿だった。シンプルな格好でもスタイルがいいので様になる。相模は無理してオシャレしてきた自分が恥ずかしくなった。


「ワンピース、かわいいー」


 母にお願いして買ってもらった花柄のワンピースだった。櫛田が送ってきたファッション関連のSNSを熟読して、似たものを安い店で探した。相模は及第点をもらえたことに胸をなでおろした。


「え、い、いや……櫛田さんこそ、かわいい……」

「いやいや、近所着すぎるでしょ」


 先に立って歩きはじめた櫛田に置いて行かれないよう、小走りになる。なんとなく隣に並ぶことができずに、少し後ろをついて行った。


「櫛田さんは何着てもステキですごいな……」


 相模の声が小さかったのか、返事はなかった。明るい日差しに照らされながら、静かな住宅街を無言で歩いた。


 ──どうしよう……怒らせちゃったのかな。


 本心から出た言葉だったが、わざとらしかっただろうか。櫛田の態度が冷たい気がする。相模は何度も華奢な背中に話しかけようとして、できなかった。


「着いたよ」


 気がつくと、高い門扉の前に立っていた。中が全くうかがい知れない塀の向こうからわずかに庭木が覗いている。櫛田が鍵をかざすと、音もなく扉が開いた。


「誰もいないから。遠慮しないで」

「す、すごいおうちだね……」


 櫛田の家は地元の名士、いわゆるお金持ちだとは耳にしていた。しかし、これほどとは──相模は整然とした庭を通って、広い玄関を上がる。まるで美術館のようなガラス張りの廊下を進み、階段を上がると櫛田の部屋に通された。


 広い洋室は相模の家のリビングの倍ほどもありそうだった。白い家具で統一されており、ロマンティックながら余計な装飾などはなく、洗練されていた。普段の櫛田のスタイルがそのまま反映されたような部屋だった。


「なにか持ってくるから、適当にしてて」

「う、うん! ありがとう!」


 櫛田はそう言い残して、部屋を出て行った。

 相模は改めて部屋を見回すと、感嘆のため息をついた。ここまで生活レベルの違いを目の当たりにすると、羨ましいとも思えない。


 ──どこに座ったらいいんだろう……。


 真っ白なソファに、ひとつひとつ違ったクッションが並べてあった。座って乱してしまうのは気が引ける。また、一人がけのおしゃれな椅子も置いてあるが、ここは櫛田が座るべきだろう。かといって、ラグの上に座るのは逆に失礼ではないだろうか。


 色々と考えた結果、相模は薄い光のさしている窓辺に歩み寄った。縦型のブラインドは少し開いていて、庭の緑が見える。窓の外を眺めている振りをして、立っていようと思った。


 ふと視線を移すと、作りつけの棚の中にぬいぐるみが置いてあるのが目に入った。白いクマをモチーフにした人気のキャラクターだ。衣装の違ったものがいくつか並んでいる。


 ──櫛田さんも、こういうの好きなんだ。


 大人びた部屋の中で緊張していた相模は思わず笑みをこぼした。

 小さい頃、同じキャラクターのぬいぐるみを買ってもらったことがあった。亡き父の、最後のプレゼントだった。


 ──帰ってきたら、話してみよう。


 はじめて櫛田との共通点を見つけた気がして、相模は嬉しかった。気が抜けたぬいぐるみの表情に安心して、頭を撫でようと手を伸ばした。

 その時、スリッパの鳴る音がした。


「あ、櫛田さん……おかえりなさ」

「また盗るつもり?」


 振り返ると、手にお盆を持った櫛田が立っていた。冷たい視線に射抜かれて、相模は固まったまま動けない。何か言わなければと思ったが、喉がひきつれたように言葉が出てこなかった。

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