第一章~旅立ち~
一幕‐覚醒‐
1-1.目覚め
虎獣人が筋肉質な腕を投げ出しベッドの上で寝息を立てている。彼が眠っているのは、大樹の中腹に設けられた不思議な空間。
一見すると部屋のようにも見えるが、そこには屋根も壁もなく、なぜか床だけは丁寧に敷かれた。
その空間を包み込むように幹や枝が優しく広がりながら、静かに空へと伸びていた。
新緑の香りがふわりと流れ込み、小鳥たちのさえずりが空間を満たしていく。
やがて、暖かなそよ風が虎獣人の黄色い毛並みをそっと揺らし、その穏やかな気配に誘われるように、彼はゆっくりと目を覚ました。
虎獣人「ふぁぁ~……」
俺は深いあくびをしながら大きく体を伸ばした。心地よい朝の余韻に浸り、ベットから起き上がると――
ゴツッ!!
頭を太い枝にぶつけてしまった。
虎獣人「痛ってぇ……なんでこんな所に枝が……?」
不思議に思いながらも窓の外に目をやると、そこに映ったのは見慣れた草原ではなく――ただただ青い空だった。
虎獣人「なんじゃこりゃぁぁぁ!? 」
よくよく見てみると、馴染みの窓も、壁も、屋根も消え失せ、まばゆい青空と白い花畑が広がっていた。
虎獣人「……一体、何がどうなってやがる……?」
状況が呑みこめず昨日の記憶を探ったが、何も思い出せなかった。
見覚えのない場所で目覚めた焦燥感に駆られさらに記憶を辿ろうとした時、鋭い痛みが頭を突き抜けた。
虎獣人「痛ててて! ……また飲みすぎて記憶でも飛ばしたか?」
頭を押さえながら、何か飲み物はないかと周囲を見渡した。
そのとき、近くの椅子に、フードを目深に被った人物が静かに座っているのが見えた。
虎獣人「なんだ、あんた…?」
ベッドから飛び降りその人物に目を凝らす。
何故こんなにも近くに人がいるのに気配を感じなかったのだろうかと、疑問を覚えつつ再度声をかけた。
虎獣人「おい、聞こえてんのか?」
声をかけても反応はない。不審に思い、近場に落ちていた枝を拾い上げ、恐る恐る近づき突いてみた。
――その瞬間。
ぐらりと体が傾き、その人物が椅子から崩れ落ちそうになった。
虎獣人「ちょっ、大丈夫か!?」
慌てて支えるが、その手に伝わる感触に息をのんだ。その体は既に冷たく硬直しており、生きている気配がどこにもなかった。
虎獣人「……死んでる?」
血の気が引き、心拍数が跳ね上がった。支えている手に意識を向けるが、やはりぬくもりを感じることはできなかった。
俺は静かに彼を抱きあげ、ベッドの方へと足を運んだ。
抱き上げた拍子にフードがはずれてしまい、年老いた犬系獣人の顔が露わになるが、その顔には優しく穏やかな笑みが浮かんでいた。
俺はそっと老獣人の遺体をベッドに寝かせた。
虎獣人「……すまん。悪いことをしたな」
”死”
魔物が蔓延るこの世界では、誰かの死に直面することは珍しくない。死の動揺に飲まれていれば、次に命を落とすのは自分自身だ。
生き延びるためには常に冷静に判断し行動する。俺はこれまで幾度となく命のやりとりを重ねる中で、そう学んできた。
虎獣人「……一度、状況を確認しよう」
相次ぐ不可解な出来事に、まずは状況を整理することにした。
見知らぬ場所で目を覚ましたこと。
昨夜の記憶がすっぽり抜け落ちていること。
そして、見覚えのない老人の遺体……。
前者二つに関しては、またしても酒の飲み過ぎだろうか。以前、飲み過ぎて記憶を飛ばし、気づけば見知らぬ原っぱで寝転がっていたことがある。今回も似たようなものかもしれない
だが、この老人は、いったい誰だ?
まさか、俺が殺めた……?
酔った勢いで?
思わず喉が詰まる。
しかし、彼の体には外傷ひとつ見当たらず、血の跡も、争った形跡すらもない。むしろその顔は穏やかで、どこか幸せそうな表情を浮かべている。
虎獣人「考えても分からねぇな……」
少しでも情報を得るために、俺は周囲を見渡してみた。
老獣人が座っていた机の上には、ひび割れた丸い石と古びた本が置かれている。
そして、ベッドからすぐ手の届く場所には大きな袋。傍らには「持っていきなさい」と達筆な字で書かれたメモが添えられている。
袋の口を開け中を覗き込むと、水の入った瓶、パン、果物などが詰め込まれているのが目に入った。
虎獣人「この爺さんが用意してくれたのか?」
メモ書きがあるものの、本当に貰ってしまって良いものかと不安になる。しかし、喉の渇きには耐えられず、水の入った瓶を一つだけ手に取った。
虎獣人「……分からねぇが、ありがたくいただこう」
そう呟き、俺は水を一気に飲み干した。
虎獣人「まずは、近くに誰かいないか探してみるか……」
ここがどこか見当もつかない以上、人を探すのが得策だろう。そう考え、俺は部屋を出ることにしたが、ふと卓上の古びた本が目に入った。
「“旅のお供” 絶対に読め。絶対にだ。無視せずに読め」
本の表紙にデカデカと赤字で書かれていた。しかし、俺はそれを手に取らずにぼやいた。
虎獣人「魔導書か……ろくな思い出がないんだよな……」
以前、魔導書を手にした瞬間に魔法が暴走し、全身の毛が一瞬で焼失するという、あまり魔導書と関わりたくない経験をしたことがある。
そんな記憶に顔をしかめた後、部屋から出るために開放感たっぷりの張り出た床へと足を進めた。
視界の先には、一面に花畑が広がっていた。白い花が風にそよぎ、静かに揺れている。
虎獣人「……綺麗だな」
美しい景色に見とれ、俺は無言で立ち尽くしてしまった。
虎獣人「おっと、こうしちゃいられねぇんだった。降りるか」
部屋を支えていた木の幹は、幸い斜めに伸びていたため簡単に地上に降りることができた。
地上に降り立った俺は、巨大な樹の周りを一周し四方を確認した。この場所は一本の大樹を中心に花畑が広がっており、まるで森の中にぽっかりと現れた広場のようだった。
町や村へと繋がる人が往来する道があれば良かったのだが、残念ながら見当たらなかった。この場所から抜け出すには、森を進むしかなさそうだ。
俺は森を抜ける決意を固めたが、その前にやることがある。
虎獣人「手頃な石、落ちてねぇかな」
地面を掘れるほどの石を探しながら歩いていると、所々に水晶が埋まった大きな石を見つけた。それを両手で持ち上げ、大樹のそばに広がる穏やかな木陰に置いた。
そして、石を手にして近くを掘り始めた。
手のひらが次第に痺れ、額に汗が滲んでくる。だが、俺は手を止めず懸命に掘り続けた。
しばらくして、老獣人の墓を完成させた。
虎獣人「急ごしらえで簡単なものしかできねぇけど勘弁な」
近場に咲いていた花を一輪摘み取り、墓標に添えた。柔らかな風が通り抜け、白い花々が一斉に揺れた。まるで老獣人の優しい微笑みが、風に溶け込んでいるかのような気がした。
◇ ◇ ◇ ◇
俺は森の中を進んでいた。最初は木々の間隔も広く歩きやすい道が続いていたが、奥へ歩みを進めるほどに木々は密集し、薄暗さが一段と増していった。
足元の湿った土はじわじわと冷たさを帯び、まるでこの森そのものが俺を拒んでいるかのようだった。
虎獣人「人が住んでるような形跡があれば大儲けだとは思っていたが、こりゃ人っ子一人いねぇぞ。いったん引き返すか……」
森に入り込む日差しは少なく、これ以上の探索を続けるのは危険だと判断し、俺は来た道を戻り始めた。だがどれだけ歩いても、先ほどいた花が一面に咲き乱れる広場に戻る気配はない。
それどころか、森の奥深くへと引き込まれていくような感覚に襲われた。
虎獣人「……まさか、道に迷ったのか?」
ドスン、ドスン。
一抹の不安を抱いていると、遠くから重々しい足音が耳に届いた。
虎獣人「……大きいな」
獣人は嗅覚や聴覚が人間よりも格段に優れている。特にネコ科の俺は聴覚に長けていて、歩く音を聞けば相手の大きさもだいたい察しがつく。足音の重さから推測するに、その何かは俺の三倍以上の大きさはあるだろう。
俺は獣人の中でも体格が良く、比較的大柄な方だ。それより三倍も大きいとなれば、人間であるはずがない。おそらく魔物だろう。そんな化け物を相手に、この丸腰の状態では到底勝ち目はない。
虎獣人「せめて武器になるものがあればな……」
周囲を見回し、何か使えそうなものを探すが、視界に映るのは鬱蒼と茂った木々と草ばかりで、手頃な枝ひとつ落ちてやしない。ツイてないな、と心の中で愚痴りながら、気付かれないよう息を潜めた。
幸い、足音はまだ遠かった。俺はすぐそばの樹を背にして身を潜め、じっと周囲を窺った。
――その時。
バサリッ、と目の前の枝が不自然に大きく揺れた。
虎獣人「ッ!」
何かが猛烈な速さでこちらに飛んできたが、あまりにも一瞬の出来事で、何が起きたのか理解できなかった。
(やべぇ!早く逃げねぇと!)
本能が叫び、俺は必死に足を動かした。
しかし、身体が何かに引っかかり、その場から逃げることができなかった。
脳は「走れ」と命じるのに、体は微動だにできず、焦りが一気に混乱へと変わっていく。
その時、胸元に焼けるような熱が走り、俺の意識をかき乱した。
(熱い……!胸が、熱い!)
焼けつく熱が肺を満たし、呼吸すらまともにできない。
突然、喉の奥から何かが込み上げてきた。
ごふっ!!
口から噴き出した血が、鉄のような生臭さを纏い、視界を赤く染めた。
焼けつくように熱い胸元に視線を落とすと、そこには、長い”何か”が、ズブリと胸を貫いていた。
視界に入ったその光景を理解した途端、胸の奥底から、灼けた刃で心臓を引き裂かれるような激痛が全身を駆け上がった。
虎獣人「ぐあ゛ぁぁぁ!!」
絶叫が森に木霊する。
しかし返ってくるのは、血と絶望の匂いだけだった。
痛みが、恐怖が、意識を塗り潰していく。
息を吸おうとしても、肺が潰れてしまったのか上手く空気が入ってこない。
(苦しい……痛い……)
必死に呼吸を繰り返すたび、胸の穴から血が溢れ、肺に逆流し、シュブシュブと泡立つ音を立てた。
次の瞬間――
胸を貫いていた“何か”が、俺の血を味わうかのようにゆっくりと引き抜かれた。
支えを失った俺の身体は、力なくその場に崩れ落ちた。
胸から血がとめどなく溢れ、指先が冷えていく。
耳が――キィンと金属を擦るような音を立て始め、視界が徐々にぼやけ始めた。
(嫌だ……死にたくない)
ぼんやりと見える森の中。最初はただの木々にしか見えなかったものが、
次第に色鮮やかな鱗を反射し、巨大なカメレオンのような魔物が姿を現した。
(……早く、逃げねぇと……)
手足を動かそうとするが、指がわずかに痙攣するだけで、力が入らない。
(動け……動けよ……)
視界の光は薄れ、身体の熱が静かに失われていく。冷えゆく感覚が、確かに死の足音を告げていた。
(……嫌だ)
(……死にたくない)
(…………嫌だ)
(……まだ、死にたくない)
焼けるような痛みはいつしか薄れ、冷たさだけが身体を包み込んだ。
俺の願いは――
叶うこともなく、闇へと飲み込まれた。
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