橘裏人
「かのキリストはワインを自らの血だといい、パンを自らの肉だと言った! なるほど、光にたゆたう薔薇色の輝き……これを聖人の血とするならば、吸血鬼がもっとも忌むべき存在だ。だが、その一方でワイングラスに注がれた真紅の液体は、ビジュアルに描かれた吸血鬼にとって、血の比喩でもある。古今東西、吸血鬼の手元には血の注がれたワイングラスが描かれており、実際、かの串刺公ヴラド・ツェペシュの生誕地ルーマニアでは、ヴァンパイアの名を冠するワインが造られているのだ! ゆえに! 我輩は、こう考える! 神の名が死んだ現代社会において、皮肉にも、吸血鬼が嗜むアルコールとして、ワインほど相応しい物はない、とね!」
それだけ一息に言うと、橘は高らかにグラスを掲げて、真っ赤な液体を飲み干した。
「……仕事中にワインなんて飲んで、いいんですか?」
「これは、ザクロジュースだ。甘酸っぱくて実に美味い」
「…………」
(ワインじゃねーじゃんっ!)
非難がましい睦月の視線を受け止め、橘は平然と言う。
「我輩は、単にワインと吸血鬼の関係性について、独自の考察を語っただけで、グラスの中身がワインだなどと、一言も言ってはいないが?」
「はあ。さいですかー」
(めんどくせー。なんだかこの人、めんどくせーなぁ……)
もう一時間近く、こうして独自の『吸血鬼論』とやらにつき合わされていた。
話の内容は、最近の深夜アニメから古典文学に至るまで、完璧に吸血鬼一色である。
とにかく彼は、マイペースというかなんというか……むしろ、自分のペースに世界が合わせるべきだと思い込んでるような様子だった。
ドゥンケル城のもう一人の主こと、サキュバスの琴羽は控えめで大人しい性格だと言うのに、この違いはなんなのだろうか?
睦月は、机に置いたヘルメットを、コツコツと指先で叩いた。
今、二人の間にはミックスサンドの大皿が置いてある。橘が注文したものだ。
カラシの利いたハムサンドを齧りつつ、少々うんざりしながら睦月は問う。
「つまり、橘さんは自らのヴァンパイアという役柄に、並々ならぬ誇りをもってるってわけですね」
相変わらずのすまし顔で橘は頷いた。だが、その鼻息は少し荒い。
「その通りだ! あらゆるモンスターの中でも、ヴァンパイアは別格だ! 知名度、美しさ、その恐ろしさに至るまで、最強の存在なのである! まさに怪物の王者だ! ……なあ、君。そうは思わんかね?」
「はあ……かもしれないですねー」
「こんなに素晴らしいヴァンパイアなのに、オーナーは長い間ストレンジ・ワールドのキャストに加えてくれなかったのだよ。なんでも、ヴァンパイアには嫌な思い出があるとか言ってね。吾輩は十年以上かけてオーナーを説得し、自らが理想とする完璧なヴァンパイアを演じることで、どうにかメインキャストに加えてもらえたのだ」
「へえ。頑張ったんですねー」
「ヴァンパイアの魅力は、五体をバラバラにされても復活できるほどの不死性にある。完全に倒すには、動けなくした上で弱点を突くしかない! 弱点については諸説あるが、おおむね共通してるのは、心の臓に杭を打たれると死ぬ、日光が苦手である、十字架とニンニクと聖水に弱い、流水を渡ることができない。これらのうちのひとつ、あるいは複数を組み合わせるのが有効とされている」
「……ふむ、なるほどー」
(……話が長いなぁ。それにしても……さっきから我輩って……)
どうやら、このしゃべり方は地らしい。
ふと、芽衣子の事が気になった。
メインキャスト同士、何か知っているかもしれない。そう思って聞いてみる事にした。
「そういえば、芽衣子さん。どんな感じですか?」
「なんだ、睦月君。芽衣子君の心配をしてるのかね? 大丈夫だよ。あいつは文字通り、殺しても死ぬタマじゃない」
「でも、昨日見た感じでは、かなり傷がひどそうでしたよ」
「ひどいものか! 今朝なんて、牛丼特盛に卵を三つも入れてバクバク食っていたぞ!」
「朝から牛丼特盛りに卵三つって……肉食系アルラウネ? 食虫植物みたいだな」
そう呟いてから、睦月は真面目な顔になり、橘にそっと尋ねた。
「あの、それで。芽衣子さんは、何があったって言ってるんですか?」
「さあな。紐のような物で首を絞められて、ほとんど一瞬で意識を失ったと言っている」
「へえ。それじゃ、やっぱり犯人がいるのか……怖いな」
「まったく! 詩桐君がしっかり手綱を握っていないから、こんな事になるのだ!」
と、もうひとつサンドイッチを食べようとした睦月の耳に、妙な話が聞こえた。
「……あれ、昨日の事件の?」
「らしいよ。なんか、痴話喧嘩だって」
「昔の恋人襲って生き血を啜ったって……」
睦月の手がピタリと止まる。それを横目で見ていた橘が言う。
「君も、我輩が芽衣子君を襲っただなんて考えてる口かね?」
「いえ。それはないと思いますよ」
即答だった。事実、睦月はそう思った。
橘の印象は、面倒くさくてキザったらしいが、決して悪いものではない。
役作りの上でヴァンパイアに
橘が鼻で笑いつつ、言う。
「無責任な話だよな。確かに、彼女は元恋人だがね。しかし、ヴァンパイアが好んで襲うのは処女なのだ! たとえ血を吸うにしても、あやつの事は襲わんよ」
元恋人の芽衣子を襲わない根拠が、それだと。処女の血だと。人前で明言してしまう。
手をヒラヒラさせる橘を見て、睦月は苦笑してしまった。
彼は、大皿からタマゴサンドを取りながら軽い調子で返した。
「でも。橘さんって……意外と人の噂とか気にするんですね」
しかし、橘は「はあ?」と、声をだし、それから思いっきり見下したように睦月を見た。
「なんだ……君。バカだったのか」
「……っ! 橘さんが、俺に、噂の事を聞いたからでしょう?」
いきなりバカと言われ、ムッとしつつ睦月が反論する。
しかし、橘はキッパリと言った。
「我輩が尋ねたのは、君にだ。霜上睦月が橘裏人を、どう思っているかを聞いたのだ。周りの人間がどう思っているかではない」
それから、両手を広げて大げさな動作で首を振り、
「なぜ、我輩が、ゲストでもない、友人でもない
「……あ、いや。その通りですね。俺がバカでした。ごめんなさい」
彼の言った事は間違っていない。だから、睦月は素直に認める。
橘は満足そうに頷いて、大仰にトマトサンドを口に運ぶ。
「うむ、素直は美徳だぞ!」
そんな橘を見ながら睦月は思う。
(一言で表すなら……裏表のない人……か?)
同僚や友人として付き合う分には、わかりやすい種類の人間である。
今の話にしても、睦月が勝手に邪推しただけで、彼自身は本当に周囲の雑音を気にしないタイプなのだろう。裏を返せば睦月の事は、『その他大勢ではない』と認めているという事だ。
意外と友好的な男のようである。プライドはとても高いし、妙に芝居がかってわかりにくい発言もするが、仕事に一生懸命だし、なんとなく憎めない。
睦月は彼に、好ましい印象を持った。
(それに、卑屈で庶民的、腰の低い吸血鬼なんてもんは、きっと気持ち悪いに違いないな)
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