おまえのために死神に転生したんだよ

へのぽん

イシグロとマリアの死


 イシグロは、粗末なソファに寝そべって文庫本を開いていた。頭上のサッシ窓にはどこか遠くの街灯の光が跳ねている。


 ☆☆☆ ☆☆☆

 美しいアマランタは生死の淵にいた。これまでのことを考えれば当然のことだ。神に喉を締められた彼女は贅を尽くしたテーブルから滑るように倒れた。今まさに神が天罰を下そうとしているのだ。しかし彼女は死ぬわけにはいかない。なぜなら彼女の腹には愛すべき一人の娘がいるのだ。私は今一度彼女に命を与えたくてしようがないが、神に背くことになるのだろうか。読者諸君はいかがだろうか?

 ☆☆☆ ☆☆☆


「知らんがな」


 イシグロは呆れて本に呟いた。

 人口四十万弱、河口の中州にある地方都市で隠れて暮らしていた。地方都市は身を隠すには丁度いい。商社勤めの両親と某国で暮らしているとき、テロリストに誘拐された。七歳くらいの頃だ。


 一輪の薔薇が花瓶にある。どこかで住人がトイレを使ったらしく、壁に埋められた配管を通る水の音が響いてきた。


「もう八時か……さすがに夏でも暗くなるもんだな」


 一緒に逃げてきたマリアは、ボロボロのマンションでも気にしない。彼女がイシグロの故郷へ来ようと提案した。勇者は故郷に帰るべきだと。マリアは古いソファ、狭いベッド、歪んだ天井、何でも幸せに繋げた。


「もう読むのこれしかないしなあ」


 テーブルで、スマホが震えた。マリアからだ。通話口からコンビニの出入口のチャイムが聞こえた。

 イシグロは小説をガラステーブルに伏せた。小説はほぼ読み終えている。今は何となく読む気にもなれなかったライトノベルと言われるものを読みかけた。


『今すぐ逃げて。狙われてる』

「今どこだ」

『いいから早く逃げて。わたしはこのまま部屋には戻らない。尾行されてるみたい』


 激しい呼吸がした。

 歩きながら話しているのだ。


「何人いる」

『わからない。今すぐに一人で逃げて。おカネは例のところに隠してあるから』

「落ち合おう」

『来なくていい。今こんなこと言いたくはないけど一緒にいられて幸せだった』

「泣くな」


 イシグロは、クロゼットのジャケットに袖を通した。自動式拳銃とポケットの予備の弾倉を調べると、風呂場の換気口からリュック鞄を引っ張り出した。


 コミカライズ発売中!

 表紙に破れかけた帯がある。


「よくこんな小説、コミカライズしようとしたな。漫画家に脱帽だ」


 読みかけたのは三巻、コミカライズ化は何巻かわからない。突然出てきたアマランタの死の淵。すでに彼女は身ごもっていることは理解できた。作者が小説の中から呼びかけてくるとはどういうことだ。


「俺が迎えに行く」

『あなたに救われて、一緒に生きてこられただけ幸せよ。あなたの故郷で死ねるのもね。死ぬのは構わないけど、このことだけは忘れたくない。浮気しないでね』

「マリア、諦めるな。別のこと考えろ。これまでと同じだ。俺たちはそうして生きてきた。ちなみに浮気したことないぞ。にしてもこの小説人気あるのか?」

『そんなの知らないわ。ブックボブで適当に選んで適当に詰め込んだんだから。あなたは、修羅場なると、たいてい別のこと考えるわね。アイデア降ってきた?』


 マリアは笑おうとしていた。


『組織から逃げられない。ヒドラみたいに奴らは次から次へと生まれるのよ。ね、もう一度言うわ。わたしはあなたに救われて幸せだった。この国も好きよ』

「諦めるな。死んでもな。おまえを守るためになら天使でも死神でもなってやる」

『グロウが天使だなんて。せいぜいなれても死神よ。もうテロリストにも言われてるしね。自爆テロを生き残ったときに。どこで落ち合えばいい?ああ、ダメ。わたしのことはいいから。でも離れたくないの』

「川沿いの駐車馬だ。月極のところに置いてある中古のBMWだ。マフラーに鍵を入れてある」

『待ってる』


 発砲音が聞こえた。

 スマホが跳ねる音。

 会話が途絶えた。


 イシグロは、かねてから逃げ道のために作っておいた天井裏へと這い上がった。


 数十分後、川沿いに面した月極の駐車場にBMWに着いた。置きざらしのように古い。実際、走るかどうか怪しくて、誰にも見向きもされない。金髪のマリ泣きそうな顔でいた。イシグロは警戒しながらもBMWに近づた。彼女の腕はドアに手錠で繋がれていた。


「逃げて!」


 BMWが爆発した。

 爆風に押されて、イシグロは草むらを逃げた。追いかけられながら、彼女が死ぬことなんて考えられるかと言い聞かせた。


 こんなの演出だ。

 サプライズだ。


 イシグロもマリアも、別のところで生まれて誘拐されてた。マリアははじめは児童ポルノ、売春、イシグロは人殺しの道具としてだ。二人は、イシグロに課されたミッションの前に一晩を共にした。


『怖くないの?』

『怖いという気持ちがわからない』

『生きたいと思わない?わたしは他人に抱かれるたびに死にたくなる。毎夜何度も死んで、また朝日とともに蘇る。天使に責められる』

『なら俺は死神になるよ。死ぬときに寄り添えるからな。今夜は生きたい夜にしてやる。だからたくさん話そう』


 十五歳のイシグロははにかんだ。


『今夜は夢を見たい。好きな人と結婚して子どもがいるんだ。今みたいに戦争もテロなんてない。平和な世界だ。子どもを育てて暮らすのはどうだ。俺たちの子どもでなくてもいい。世界の子どもたちだ。いい夢だろう?』

『ええ、とてもいい夢だわ。それにあなたはいい人ね。抱いてあげるわ。あなたも生きたくなる夜にしてあげる』


 その後、体に巻きつけられたリモコン爆弾が不発で、敵対する連中に捕まりたくないのでアジトに戻った。爆弾を倉庫に隠してマリアとともに逃げることにした。


「マリア、俺はおまえがどこにいても探し出して幸せにしてやる」


 拳銃をくわえた。

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