第19幕-ifの世界の貴方と私-

別の選択肢の世界線。


卒業後の2人。


悠歩は海嶺学園の寮で、忙しくも充実した日々を送っていた。

ユイナは、交換していたメールアドレスに、たわいない日常の一コマをときどき送った。返信がなくても気にしない。でも、ふとしたタイミングで届く短い言葉に、ちゃんと見てくれてるんだなと感じられた。


「次の休みに帰るよ」なんて連絡が入ると、それだけで自然と会う流れになる。

いつの間にか「小森さん」「国本くん」だったのが「ユイさん」「悠歩くん」になり、「またね」が「次はいつ会う?」に変わっていた。言葉にしなくても伝わるものがあって、変に気を遣う必要もなく、ただ隣にいるのが自然だった。


ユイナの高校や大学での生活は現実とそう変わらなかったけれど、悠歩という存在が彼女の毎日を少しずつ、でも確かに照らしていた。誰かに何かを証明しなくても、ちゃんと自分でいられる時間。その静かな肯定が、ふとした沈黙の中に、視線の重なりに、散りばめられていた。


その後、悠歩は都内の国立大学に進学し、寮を出て実家から通うようになった。

ユイナもまた、実家から都内の私立大学に通っていた。


彼は研究に没頭しながらも、目標に向かって迷わず歩いていた。夢はずっと変わらない――海のことを知りたい。


その軸のぶれなさが、ユイナにとっても支えになっていた。


そして25歳。


ユイナは第一志望だった企業で、都市開発のプロジェクトに関わっている。


少しずつ任される仕事が増えてきた。


悠歩は博士課程で研究に打ち込みながら、着実に前に進んでいる。


忙しくて会える時間は少なかったけれど、無理に埋めようとはしなかった。すれ違いを責めるでもなく、互いの選んだ日々をちゃんと尊重していた。たまに会えたときの、何気ないやりとりの中に、安心や信頼がちゃんと宿っていた。


ある冬の日、悠歩が言った。


『今度、北欧の学会に行くことになったんだ。うまく行けばグリーンランドにも足を伸ばせそう。氷山のよく見える町があるんだよ。…ユイさんも、来ない?』


そのときの口調は軽かったけれど、目は冗談を言っていなかった。


ユイナは少しだけ黙って、それから、うん、と笑った。


2ヶ月後。


先に学会へ旅立つ悠歩を見送る空港。


別れの空港の空気は、どこかもの悲しい。高い天井、ざわつく人波、繰り返されるアナウンス――


流れる風景の中で、自分たちだけが静止しているみたいだった。


ふと顔を上げると、壁一面に広がる広告パネルが目に入る。真っ青な海と空、その真ん中に浮かぶ氷山。白と青のコントラストが眩しい。目を引くはずのその光景も、どこか遠く、現実感を伴わない。


その瞬間、不意にあの頃の空気が蘇った。


氷山、図書室、汗で張り付く制服、初夏の風、通学路、花の匂い、キーホルダー。


どれもありふれた日常だったはずなのに、気付けば、自分の中に深く根を張っていた。


それが、こうして今に繋がっている。


悠歩くんも、同じ気持ちだったらいいな――そんなことを考えていると、


『ユイさん』


振り向くと、悠歩が少し改まった声で言った。


『ありがとう。ここまで連れてきてくれて』


思いがけない言葉に、頬がゆるむ。


『それは、こっちのセリフだよ』


保安検査場の前。


自然に繋いでいた手を、そっと離す。すべてがスローモーションになったような感覚の中で、彼が真っ直ぐにユイナを見つめる。その眼差しの奥に、鼓動の音がかすかに伝わってきた。


『あのさ……聞いて欲しい』


一呼吸置いて、悠歩が言葉を選びながら続ける。


『……君がこれまで繋いでくれたから、頑張れた。』


『君がいたから、僕はここまで来れたんだ。』


『本当に、君に出会えてよかった。

……これからも、そばにいてほしい』


丁寧に選び取られる言葉のひとつひとつが、静かに降り積もる。温度を持たないフィルムの世界に、彼の本気だけが、確かに滲んでいた。


もう一度、彼が手を取る。


『ユイ、愛してる』


その瞬間だけ、世界が一瞬、音も光も止まった。


アナウンスも、人のざわめきも遠のき、彼の声だけが、まっすぐに胸の奥へ落ちていった。


『じゃあね』


悠歩は少し顔を赤くして、視線を逸らしながら歩き出した。


保安検査場へ向かう背中を、ユイナはただ見送る。


胸に手を当て、彼の姿が見えなくなるまで、その場を動けなかった。


心に残ったのは、彼の声。


そして、あの氷山の静けさ。


大げさな別れじゃない。

数日後にはまた会えるのに。

だけど――

空港の空気と、あの氷山の写真。

中学時代の記憶、会話。

色んなことが積み重なって、一斉に胸に押し寄せた。


“今この瞬間にしか言えない”って、彼もきっと、そう思ったんだ。


手を胸に当て、彼の姿が見えなくなるまで、その場を離れられなかった。


25歳のふたりはスクリーンの中で白くフェードアウトしていく。


それはまるで、本当の映画のワンシーンみたいに、美しかった。

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