第33話【消えた首飾り】
展示室に立ち込めていた緊張の空気が、皆既月食の終わりと共に徐々に緩みはじめていた。
「黒薔薇の首飾り、異常なし。封印用ケース、無事。施錠確認済みです」
警備スタッフの報告に、旦陽は小さくうなずいた。
「分かったわ。横溝刑事」
「はっ。撤収準備に入ります」
警備員や刑事たちが持ち場を離れはじめる中、湊はひとり首をかしげたまま、展示ケースの前に立っていた。
何かが、妙だ。
あれだけ周到に予告状を送りつけ、博物館の警備体制を一新させたにも関わらず、怪盗は姿を現さなかった。
――いや、逆か。
「過剰なほどの警戒の中で、“何も起きなかった”ことそのものが、不自然なんだ」
湊は低くつぶやいた。
周囲では、来場者もスタッフも安堵の表情を浮かべ始めている。理沙と沙耶も、控室のソファに腰を下ろし、ようやく緊張の糸を解いていた。
「本当に何も起きなかったのでしょうか……」
沙耶の不安混じりの声に、湊が応える。
「ああ……」
だがそのとき。
「一条さん!」
美術館職員のひとりが駆け込んできた。
「い、いま、入口ホールのカウンターに……これが、置かれていました!」
彼が差し出したのは、黒い封筒だった。
湊が封を切ると、中には一枚の白い紙が入っていた。そこには、タイピングされた文字が並んでいた。
《夜の帳に散る薔薇の花、月を見上げた君はまだ知らない。すでにそれは、幻の中に沈んでいる》
《“黒薔薇の首飾り”を確かにいただいた》
その瞬間、展示室の空気が凍りついた。
「――!」
湊は踵を返し、首飾りのもとへと駆け寄った。
誰もがその異変に気づいていなかった。
だが、湊の目はすでに“異常”をとらえていた。
「柏原、照明を」
「分かったわ。横溝刑事」
「はっ!」
光が変わり、展示ケース内が柔らかく照らし出された。
――それは、一見すれば完璧な宝石に見えた。
だが、光の当たり方ひとつで、その違和感は露わになる。
「……これは本物じゃない」
湊の声が、静まりかえった空間に落とされた。
「すり替えられている。これは、精巧なレプリカだ」
「ほ、本物ではない、と? 一条探偵、それはどうしてそう思ったんじゃ?」
丹下会長が軽快な足取りで駆け寄ってきた。
ご老体にしては足腰がしっかりしていた。
その丹下会長に対して、旦陽が答えた。
「……。黒薔薇の首飾りに使われているのは、ブラックパール……つまり、黒蝶真珠です。この、パンフレットに写ってたのは、『オーロラ・ピーコック』と呼ばれる、鈍く光る『孔雀の羽のような虹色』が特徴のものです。それに、ブラックパールとは言いますが、天然物に漆黒のものは存在せず、そのほとんどが黒染めされたものです。ここにある黒薔薇の首飾りは、そのような虹色の干渉光がありませんので、黒染めされたものであると思われます」
「もっとも、黒染めされたものであっても必ずしも偽物であるとは限らないが、パンフレットを見る限り、別物であるのは確かだな」
「バカな! 警備は厳重だったはず! それなのになぜ! いつすり替えられたんじゃ!」
「丹下会長、落ち着いてください。あまり興奮なさるとお体に触ります」
横溝刑事が、興奮する丹下会長をなだめていた。
「このレプリカを用意した者は、首飾りの情報だけでなく、ケースの構造、展示室の照明配置、警備の導線、そして――今夜の皆既月食のタイミングまで、すべてを把握していた」
「ああ。そして、本当の犯行はあの“映像が消えた瞬間”に行われたと考えるべきだろう」
周囲の空気がさらに冷え込む。
職員のひとりが、震える声を上げた。
「で、でも、防犯カメラの映像には……」
湊がその言葉を遮るように言った。
「その映像が消えた“たった数秒”。そのわずかな空白こそが、あの怪盗の舞台だったんです」
理沙が顔を上げる。
「まさか、あれが……犯行の本番だったなんて……」
湊は、黒い封筒をもう一度見下ろした。
その予告状には、“これから盗む”ではなく、“すでにいただいた”と明言されていた。
つまり、この紙は“宣言”ではない。“完了報告”だ。
「予告を予告のまま終わらせる。それが最大の演出だったんだよ」
湊のつぶやきに、誰もが息を飲んだ。
照明の下に置かれたレプリカが、まるで“勝ち誇る笑み”を浮かべているように見えた。
「ですが、それは不可能犯罪というものではないですか?」
横溝刑事が渋い顔をしながら横やりを入れてきた。
「どういうことだ?」
「展示室には、我々を含めて、複数人が警備をしていましたし、何より映像が消えたカメラの他に、7箇所設置してあります。もしもあの瞬間に行っているのであれば、全てのカメラが一時的に機能停止していなければならないですし、全員の目を欺く必要があります。10人以上いる展示室の中でそれは不可能では?」
横溝刑事の言葉に、回りにいた何人かが頷いていた。
「不可能、か。確かに展示室にはかなりの人数が警備をしていて、監視カメラも複数箇所あった。その状況下での犯行は確かに不可能だろう。だが、だからこそ隙が生まれる」
「隙、ですか」
「ああ。”カメラがあるから”、”人がいるから”。これらが隙だ。記録上では、展示台真正面のカメラ……」
「Cカメラです」
「そのCカメラだけ映像が残っていなかった」
「はぁ。それが何です? 仮にCカメラだけ映像が残っていなかったとしても、他のカメラには映像が残っているんです。一条さん、あなたは優秀な探偵だと聞いていたんですが、そうではなかったようですね」
湊の声を遮るように、横溝刑事が被せてきた。
「柏原刑事、あなたもこのような探偵とつるんでいると、あなたの程度も知れますよ」
「まぁ、待て」
振り向いて帰ろうとしていた横溝刑事を、湊が止めた。
再度湊の方を向き、冷ややかな視線で見つめていた。
「俺の話はまだ終わっていない」
「何ですって?」
「きみ、映像が無かったのはどこだったかな?」
「は、センサーが反応し、ブザーがなったタイミング前後です」
「それがどうしたんです? 結局、その瞬間に映像が無かったとしても、他のカメラに映像が残っています」
「そう。他のカメラに映像が残っている……。それが謎の1つだ」
湊が、人差し指を立てて示した。
それを見て、沙耶や理沙は顔を見合わせた。
「ええと、どういうことですか?」
「答えは簡単だ。映像が無くなっていた。これは、
「
「ああ。そもそも奇妙だと思わないか? なぜ1つだけ映像が消えていて、他のカメラには映像が残っている」
湊の視線が、展示室の天井をゆっくりと見渡す。
「もし“すべてのカメラが消えていた”なら、誰もが即座に“盗まれた”と気づいたはずだ。だが、1つだけが消えていた。しかも、それが展示ケースを正面から捉える“Cカメラ”だった」
理沙が目を見開いた。
「……じゃあ、あえて“Cカメラだけを消した”のは」
「そう、“他のカメラが正常だった”という印象を逆手に取った。誰もが“盗まれていない”、”Cカメラだけが異常だった”と考えるように、あえて他の映像は残しておいたんだ」
沙耶がはっと息を呑む。
「騙すために……“残した”んですね、映像を」
「ああ。これは、犯行を隠すための工作じゃない。むしろその逆だ。犯行は失敗した、と思わせるためだ」
その場に、再び沈黙が落ちた。
湊は、その沈黙を破ること無く、静かに歩き出した。
他の面々も、言葉を発することは出来なかった。湊の推理に一理あると思ったからだ。
「他のカメラが正常だったことを利用した犯行。犯人が仕掛けた逆転の発想」
「そう考えると、不可能犯罪ではないわね」
「ああ。犯罪には必ずトリックがある。それを上手く巧妙に隠していても、必ずどこかに綻びがある」
「綻び、ねぇ」
湊の言葉に、旦陽が少し考え込む。
それに気がついた湊が、旦陽に話しかけた。
「どうした、柏原」
「いや、1つ気になっていることがあってね。実は……」
旦陽は、感じている違和感を湊に伝えると、湊も顎に手を当てて考え込んだ。
「ふむ……。確かに、言われてみればそうだ」
「決して小さくはない違和感だけど、いま気にしたところでどうしようもないわね」
「……いや、必ずしもそうとは限らない」
「どういうこと?」
「その違和感が、事件を解く鍵になる可能性は十二分にある。とはいえ、だ。確かに柏原の言うように今は深く考えても仕方がない。それよりも、”いつ””どこで”黒薔薇の首飾りが盗まれたのか、それを考える方が先決だろう」
「そうね。一旦、警備室に戻ってるわ。湊、それとみんなも、休憩は適度にね」
それだけ言うと、旦陽は展示室を後にして警備室へと向かった。
それからしばらくして、捜査2課のメンバーと警備会社の人員が入れ替わる中、警備室や展示室の空気は静まりかえっていた。
警備室の奥まったところには、仮眠用のスペースがあり、沙耶はそこでうたた寝をしていた。
すでに時刻は12時を回っている。中学生は本来ならもう寝ているはずの時間だ。
「……」
湊は、沙耶に毛布を掛けたあと、一度美術館の外に出た。
「気分転換もいいものだ。外に出て新鮮な空気を吸うと、頭がスッキリする。君もそう思わないか、柏原」
「そうね。この美術館は、周囲が木々で囲まれているから都会の喧噪からも、車の音からも遮断されて、静かなところね」
「ところで柏原、お前タバコなんて吸ってたか」
湊が横を見ると、旦陽がタバコを咥えて立っていた。
「時々、ね。捜一の人たちもタバコ吸う人多いから、自然に。とはいっても、滅多に吸わないわ。気分転換したいときだけね」
「……静かだ。だが、静かだからこそ見えてくることもある」
「というと?」
「色々な違和感だ。映像が残っていないCカメラ、ダミーとして設置されていたFカメラ、すり替えられていた黒薔薇の首飾り、そして……」
「”彼”ね」
「確証は一切無い。だが、恐らく犯人は彼だろう」
「私もそう思うわ。でも、証拠が一切無い。犯行時間も動機も謎。それでいて、アリバイは存在する。ある意味で不可能犯罪かもしれないわね」
旦陽は、タバコを咥えながら肩をすくめた。
それを横目で見ながら湊が言葉を紡いだ。
「似ているな」
「?」
「白鷺館の時とだ。あの時は決定的なアリバイがあった。だが、その決定的なアリバイこそが、犯人であると決定づけた。完璧なアリバイは、完璧であれば完璧であるほど、歪に写る。もしかしたら、今回もそうなのかもしれないな」
「……可能性はあるわね」
そして、夜は更けていく。
すり替えられた黒薔薇の首飾りは見つからないまま……。
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