第2章:この名前が、まだ『私』かどうかわからない

第3話 鏡の中にいた私

 朝、鏡の前に立ったときは、何も変わっていないように見えた。


 顔の輪郭も、髪の寝癖も、肌の質感も、昨日と同じ『男子大学生』のまま。


 歯を磨きながら鏡を見て、「……さすがに気のせいだったか」と、

 つぶやきにもならない独り言を、心の奥に沈めた。


 


 シャツに袖を通し、ネクタイを結ぼうとして――やめた。


 昨日と同じ、少し襟の広いジャケットを羽織って玄関に立つ。


 革靴の感触も、ズボンの裾の揺れも、いつもの朝の風景だった。


 ただひとつだけ違ったのは、『何かが違っている気がしている自分』の方だった。


 


 電車に揺られている間も、頭の片隅に引っかかる違和感は拭えなかった。


 車窓の向こう、制服の群れのなかに混ざることはないのに――


 なぜか、自分もそのなかの誰かに引き戻されているような気がした。


 


 ――そして、教室に戻ったあたりからだった。


 


 制服の襟元が妙にきつく、首を横に傾けるたびに擦れる感触が気になった。


 ボタンの位置が少しずれている気がして、こっそり留め直す。


 


 歩いていて、靴の中で足が前に滑った。


 普段よりサイズが大きいような気がする。そんなはずはない。


 だってこれは今朝、家を出る前に選んだ靴だ。昨日と同じ、何の変哲もない革靴のはずだった。


 


 廊下を歩くたびに、視界の端に髪の毛がかかる。


 前髪が伸びていたっけと手で払ってみるが、感触が違う。


 毛先が耳たぶに触れる感覚に、一瞬、全身の毛穴が開いた。


 


 咳払いをした。声が、いつもより少しだけ軽かった。


 響き方が違う。喉の奥がくすぐったくて、発音の反響がずれている。


 まるで、自分の声じゃないみたいだった。


 


 胸元が窮屈だった。シャツの生地が引っ張られている。


 呼吸が浅くなる。なぜか、服が身体に合っていない。


 いや、身体のほうが、服に合っていないのかもしれない。


 


 生徒たちの会話が遠く聞こえる。


 世界との距離が、妙に曖昧になっていた。


 


 咲坂は教室の隅に寄って、胸元のボタンをそっと引いた。


 指先が布をつまむと、その下に、確かに柔らかい感触があった。


 


 冷たい汗が背筋を這った。


 指を離す。自分の指なのに、どこか『異物』のようだった。




 トイレの扉を閉めてからも、咲坂はしばらく動けなかった。


 胸元の締めつけは強くなる一方で、

 喉の奥がかすかに震えていた。


 空調の風が耳たぶをなでる感覚に、

 今まで味わったことのない『軽さ』があった。


 


 壁に備え付けられた鏡の前に立ち、思わず息をのむ。


 そこに映っていたのは、明らかに『自分ではない誰か』だった。


 


 髪は肩まで伸び、栗色がかって揺れている。

 肌は透けるように白く、目元が少しだけ垂れて優しい印象を与えていた。


 頬のラインはなだらかに削られ、顎は細く尖っている。


 見慣れたはずの制服が、まるで違う衣装のように身体に貼りついていた。


 


 胸は確かにある。


 布の下で膨らみ、ボタンの隙間から控えめな輪郭が浮かんでいた。


 試しに指先で触れると、そこには確かに肉と重みがあった。


 


 手が震えた。


 見覚えのある制服が、こんなにも身体に密着するものだっただろうか。


 太もものあたりに、スカートの裾がまとわりついている。


 風に揺れる感覚すら、異物だった。


 


「……これが、俺……?」


 


 声を出すと、透き通るような高さに、息をのんだ。


 これは演技でも仮装でもない。


 肌の下から、喉の奥から、全てが変わっている。


 


 その姿は、咲坂がかつて『理想的な女の子』だと考えていた像に、あまりにも近かった。


 控えめで、清楚で、目を合わせるのが少しだけ怖くなるような、美しさ。



「違う……こんな風になりたかったわけじゃ……」


 否定しようとした声が、また女の子の音程で響いた。


 


 鏡の中の彼女は、制服の袖をぎゅっと握りながら、

 ただじっと、咲坂を見返していた。


 


 


 職員室に戻る足取りは、どうしようもなく軽かった。


 歩き慣れたはずの上履きの中で、

 違和感を足裏に抱えたまま、名札の貼られた机に着いた。


 制服のスカートが膝のあたりでひらりと揺れるたび、

 さっきまでの自分が、どこか遠くに行ってしまった気がした。


 


「咲坂先生、これ今日の教材の確認です」


 同じ国語科の女性教師が自然に声をかけてくる。


『先生』という呼び方に戸惑いはない。


 いや、それどころか――

 まるで、ずっとこの状態でやってきたかのように、当たり前に会話が続いていく。


 


「ありがとうございます……」


 そう返した自分の声が、少しだけ震えていた。


 机の上に置かれた名札には、こう印刷されていた。


 


咲坂さきさか 悠実ゆうみ(Ms.)/教育実習生》


 


「『Ms.』って……」


 


 世界はもう、咲坂悠介を消している。


 


 誰かが声をかけてきた。


「先生、そのリボン可愛いですね!」


「えっ……あ、ありがとう……」


 


 自分の指先を見ると、細く整えられた爪に、淡いピンクのツヤが乗っていた。


 塗った記憶はない。


 だが、確かに――『似合ってしまっている』。

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