第2話 気づいたときには、もう手遅れ
凛の足音が消えたあと、しばらくその場から動けなかった。
通り過ぎていった制服の余韻が、空気の中にまだ残っていた。
赤いリボンの色と、微かに揺れた髪の軌跡。
ほんの数分のやり取りだったのに、それが今日いちばん胸に残っている。
(もっと、ちゃんと話せばよかった)
けれど、何を話せばよかったのかは分からない。
彼女はただ『先生になったんだね』と言ってくれただけで、
それが嬉しいのか、寂しいのか、自分でも整理できないまま頷いていた。
歩き出す足が、妙にぎこちなかった。
スーツのパンツがふくらはぎにまとわりついて、
なぜか『正装している』こと自体が負担になっていた。
廊下の窓から、校庭が見える。
何人かの生徒がバスケをしていた。
制服のまま笑いながらボールを追いかけて、
その光景はまるで『自分とは別の世界』の出来事のように思えた。
(彼女は、変わってなかった)
(でも、俺は……変わってしまったのか?)
凛の声が、頭のなかで何度も再生される。
「前よりちょっと、優しそうになったっていうか……」
その言葉の意味を正確に汲み取れなかった。
ただ、あの『やわらかさ』が、今の自分にとっては少しだけ苦しかった。
――小学生の頃、夏休みに一緒に図書館に通った日。
――テスト前、家に来て一緒に勉強した帰り道。
――いつも後ろをついてきていたあの子が、制服のなかで静かに笑っていた。
でもあの頃は、彼女のリボンの色が何だったかなんて、気にしたことがなかった。
いまは違う。
彼女が今日つけていたのは、赤。
制服の胸元に、鮮やかに光っていた。
(俺は、あの色のことばかり見ていた)
まるで、彼女そのものよりも――
『制服を着ていること』ばかり気になっていたような気がして、それが怖かった。
階段を降りながら、ふと足元がぐらついた。
落ちたわけじゃない。
ただ、一歩が『踏み出していい場所かどうか』分からなくなっただけ。
その瞬間――
(彼女ともう少し話していたら、違う未来になってたんだろうか)
なんて、くだらない空想がよぎる。
でもすぐに首を振った。
何がどうだったとしても、
彼女は今日も変わらず制服を着て、リボンをつけて、
ちゃんと高校生として、そこに立っている。
……なのに、自分だけが、どこか違う時間に迷い込んでしまったような気がしていた。
準備室に戻る廊下の途中、誰かが笑い声を上げた。
それが凛の声だったような気がして、思わず振り返った。
でも、そこにいたのは別の生徒たちで、誰も自分を見ていなかった。
実習初日の帰り道は、思っていたよりも静かだった。
騒がしいはずの放課後の喧騒が、どこか耳に届かなくて、
イヤホンもしていないのに、自分だけ音から隔絶されている気がした。
先生としての一日目は、無難に終わった。
名札をつけて、資料を配って、軽く自己紹介をして、
数人の生徒に『よろしくお願いします』と言われた。
上出来だ。失敗はなかった。
それなのに、胸の奥にじわっと湿った何かが残っていた。
息苦しさではない。違和感という言葉でも追いつかない。
ただ、『これが自分の立ち位置で本当によかったのか』という
ざらついた疑念だけが、ずっと残っていた。
夜、部屋の明かりをつけたまま、床に座り込む。
机の上には配布資料のプリント。
傍らに、脱ぎ捨てたジャケットとシャツ。
Tシャツ一枚の肩が、少し冷えた空気を吸い込んで震えている。
ふと、スマホの通知が目に入った。
画面に表示されたのは、凛のSNS更新。
タップすると、制服姿の彼女の自撮り。
春の光が差す校舎の外、赤いリボンが柔らかく揺れている。
「今日は実習の先生来たから、ちょっと緊張したけどがんばれた!」
と書かれたコメント。
その下に、かわいいスタンプと『がんばってるね』の返信が並ぶ。
その画面を見ているだけで、
自分の部屋がやけに殺風景に思えた。
無地のカーテン、紺色の布団、アイロンをかけていないシャツ。
そこに『かわいさ』なんて、一滴もない。
でも、その『かわいさ』に、触れたいと思ってしまった。
ただの写真。何気ない一文。
それだけで、少しだけ『届いた』気がした。
……もし、あの言葉が『私』に向けられたものだったとしたら。
そう思った瞬間、
世界が――ほんの少しだけ、ズレていく音がした。
(羨ましい、って……そういう感情なのか?)
首を振ってスマホを伏せる。
立ち上がって、ふらりと鏡の前に立った。
姿見には、身長172cmの男子大学生が映っていた。
ちょっと疲れた目元、筋張った腕、緩んだTシャツの裾。
何の変哲もない、日常の『自分』。
……のはずだったのに。
どこか、パズルのピースがずれていた。
この『自分』は、今この瞬間の心の形には合っていない気がした。
鏡のなかで、ほんの一瞬――
『別の誰か』の影が、重なったような気がした。
それは幻覚なんかじゃなかった。
もしかしたら――これから変わる可能性が、
すでに姿を見せはじめていたのかもしれない。
「……何を言ってるんだ、俺は」
呟いて、苦笑して、カーテンを閉めた。
でも、あの赤いリボンの残像だけは、目を閉じても消えなかった。
それが『誰かのもの』でありながら、
『自分のものになってもおかしくない』ような気がしてしまった。
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