第32話「うつる気配」
「なんか、頭が痛いんだよね」
同僚がそう言った瞬間、私は首筋に鈍い重さを感じた。さっきまで何ともなかったはずなのに。
「え、もしかして私も?」と心の声がざわつく。気づけば、のどが少しヒリヒリするような気配まで出てくる。
もちろん、実際に風邪をもらったわけではない。
ただ「体調が悪い」という言葉に、体が素直に反応してしまうのだ。人の不調は、目に見えない煙のように空気に広がって、こちらの心身にまで染み込んでくる。
思えば、日常にはそんな“錯覚の連鎖”がいくつもある。
電車の中で誰かがあくびをすれば、なぜかこちらもつられて大口をあけてしまう。オフィスでひとりがため息をつけば、空気が沈んで全員がどんよりとした顔になる。
「不思議だよね。人の気分って、こんなにうつるんだ」
そう友人に話したら、彼女は笑いながらこう言った。
「じゃあ、笑顔もちゃんとうつるってことじゃない?」
その言葉に、はっとした。確かに、逆もまた然りだ。
大声で笑う人の隣にいると、理由もなく楽しくなってくるし、子どもが全力で駆け回る姿を見ているだけで、こちらまで身体が軽くなる気がする。人間は思っている以上に、他人から“気配”を借りて生きているのだ。
だからこそ、私は最近ちょっとした工夫を試している。
朝から疲れていても「今日は調子いいかも」と口に出してみる。すると周りの反応がほんの少し明るくなり、その空気を吸った自分自身も、だんだん本当に元気になっていく。
「しんどい」と言えば周りまで沈む。
「元気だよ」と言えば、誰かが少し楽になる。
その錯覚の連鎖は、小さな嘘ではなく、むしろ優しい魔法みたいなものかもしれない。
結局のところ、私たちは自分ひとりで完結する存在ではなく、互いにうつし合い、影響し合って生きている。だから今日も私は、ほんの少しだけ意識してみる。
うつる気配を、できる限り温かいものにしていけたら。
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