微睡

 ベッドに体を横たえた私は、ゆっくりと脱力を始めた。窓の外では、優しく雨音がぽつりぽつりと鳴っている。私の中では、ただ心臓の鼓動だけが、ゆっくりと響いている。呼吸を深くする度に、手足の筋肉が解れていくのを感じる。それは、重力に惹きつけられるかのように、重さを増していく。視界の端には、微かにカーテンから漏れる月光が見える。ふとした瞬間に、夕方ころに首筋につけた甘い香水が香る。

 雨音のリズムと、鼓動のリズムが重なり、そして離れる。

 ゆるやかに、確実に全身を流れる血流を感じる。それは、私が生きている証に他ならない。思考が少しずつ、意識の表層から奥深くへと潜っていく。雨音が遠のき、鼓動の音が深くなる。ゆっくり、そして確実に拍動する心臓が、私を連れてゆく。布団に包まれた手足が、確かな温もりを私に伝えてくる。日常の思考は既に脳裏から去り、何もない空白が脳を埋める。それは、微睡に至る一歩手前の、空白。そこに甘い香水が、また香った。

 意識は潜り、記憶は息を吹き返す。時間を忘れたかのように、何ものにも縛られずに、あらゆる記憶と色彩、感性の塊たちが脳裏を去来する。私はそれをただ眺める。意味もわからない景色を、見覚えのある風景を、触れたことのある笑顔を…脳裏は映し出しながら、さらに奥深くへと沈んでいく。…そしてまた、甘い香りが、私を誘った。

 微睡。そうまだ認識できる、意識の最中。無意識との境目。そこで、私は彼女にまた出会った。いつか、愛した彼女に。彼女はあの日、甘いバニラの香りのする香水をつけていた。それが、現実の私の首筋の匂いと重なり、意識と共に溶けてゆく。


 車外から窓を打つ雨音。車内の芳香剤の匂い。背中を沈める、シートの感触。そして自分以外の、人の匂い。あぁ、これは、もう数年も前の、春の夜の記憶だ。


 今や私は、はっきりと目の前に彼女の存在を感じていた。今は既に私の世界にはいない、懐かしくも悲しい、彼女の存在を。

 目の前の彼女とあの春の夜の車内、香水の甘さ、化粧品の匂い…確信めいた沈黙、車の外に降る雨…全てが、現実の感覚と重なり合って、混交する。微睡はさらに、深くなる。

 私は彼女の頬に手を伸ばした。彼女は、それを微笑みながら受け入れる。柔らかい肌、人肌の温もり、すべるような、さらりとした感触。一撫でするだけで伝わる、自分とは違う肌の質感。頬を撫でる私の指先を、彼女は優しく左手で掴んだ。細い指が、私の指に絡まる。ゆっくり、頬から手が離される。彼女は私の手を掴んだまま、こちらへと近づいた。バニラの香水の匂いが強くなる。ミルクのような化粧品の香りが重なり、その甘さに脳が酩酊するような感覚を覚える。スローモーションのように、ゆったりと意識が揺蕩う。彼女はそのまま、私を抱きしめた。

 全身が温もりに包まれる。柔らかい体。首筋に回された、白くか細い腕。金色のシンプルな指輪が、彼女の左手の人差し指の上で街頭の薄い灯りに照らされていた。頬を添わせると、女性特有の匂いが香水や芳香剤の香りと混ざりあった。私はそれに安心と欲望を覚える。心地の良いそれに、しばし身を委ねた。そして、彼女に合わせるようにゆっくりと、抱きしめかえす。回した腕に伝わる感触も、柔らかい。セーターの生地が、手首を擽る。彼女は少しだけ、身じろぎをした。

 頬が離れる。お互い腕を首に回したまま、正面に向き合う。少しだけ距離を置いた優しい残り香に、私は目を瞑った。唇が塞がれる。一瞬時が止まった。リップグロスの官能的な味が一瞬口内に触れる。ただ触れるだけの、お互いの柔らかな熱を交換するような、そんな口づけ。恥ずかしそうに彼女は微笑むと、また私を強く抱きしめた。

 車外の雨音が少しずつ遠くなる。彼女の心臓の鼓動が、はっきりと聞こえる。それは私の心臓と重なり、時に同じリズムをどくり、どくりと刻んだ。全てを包み込みこむような魅惑的な、優しい熱を帯びた香り。私は、彼女の白い首元で、ゆっくり呼吸する。

 じわり、と意識が遠のく。徐々に世界が遠くなる。私はこの数年も前のあの夜を、手放したくなかった。私は遠のく夜に手を伸ばそうとした。届かない。少しずつ、確実に、夜が遠くなっていく。…

 それでも、ただ彼女のぬくもりと香りだけは、ずっと私を包んでいた。今や微かに響くだけの遠のいた雨音を聞きながら、私はついに意識を手放した。…

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