ディープスコール

 心の奥底に雨が降り続いている。何もない荒野。雨で育つ植物さえない、ただ枯れ果てたそこに、雨が降り注ぎ続ける。それは何かを隠すように、痛みを癒やすように、全てを鎮めるように。

 偏頭痛を感じた。右目の奥が痛む。こめかみが痙攣する。血流が、三叉神経を圧迫していることを感じる。それは鋭敏な、あまりにも鋭敏な自らの内側に向けられた感性だった。どくり、と脈が鳴る度に、神経は震える。脳が圧迫される。眼球が、いくらか押し出されているように感じた。手で確認する。もちろん、それは触覚ではわからない。誤差の範囲か、それとも私の、偏頭痛に圧された幻覚か。どちらとも言えなかった。

 雨は降りやまない。いつ降り始めたのかさえ、とうの昔に忘れてしまった。私はその荒野で、傘をさすことをやめた。それも数年前の話だ。濡れることに、何も意味を見出さなくなった。それは諦めとも、倦怠ともいえる感情だった。心の中の私も、頭を抱えている。右手で側頭筋のあたりを掴むようにして、ぐいぐいと動かす。少しでもマシになれ、と祈りながら。雨は降り続ける。

 私はコーヒーを淹れた。カフェインには血管を収縮される効果がある。三叉神経に触れているこの血管も、少しは大人しくなるかもしれない。味はどうでもよかった。インスタントコーヒーを少量のお湯で溶かし、水で割る。アイスコーヒーが飲みたいわけではない。水で割った方が、早く飲み干せるからだ。ぬるいコーヒーを飲み干し、ため息を吐く。シンクの前にある小窓から見える外の世界も、雨が降っていた。

 こちらの雨も降り止むことはない。心の中、その奥底。私の見える私の最深部。常に雨曝しなのに渇き続ける、不思議な場所。私はそこでのた打ち回っていた。理由は酷い頭痛によって、とは言えない。それも一つの要因だった。だが真実は、ただ何もすることがなかったからだ。のた打ち回って、頭を抱えて、爪を立ててこめかみを引っ掻く。演技じみたそれに大した意味はない。ただの暇つぶしだった。ひとしきり遊び終えた私は、仰向けに横になり、ただ真っ暗な空を眺めた。雨粒が顔にあたる。空は広い。だが、左右を見ても何もこの世界にはない。広さに意味などない。どこまで歩いたとて、景色が変わることも、何者かに出会うこともない。つまり意味がない。歩こうが、喚こうが、立ち止まろうが、寝転ぼうが、座ろうが、何の意味もない。ただこの場所と私は、ここにいる。それだけだった。

 雨音に耳を傾けながら、私は頭痛薬を探していた。いつも置いてある棚になかった。効くかどうかは別としても、気休めくらいにはなるだろう、と探し始めたはいいものの、どうやら切らしているようだ。諦めて椅子に座る。頭が重い。それは窓の外の、雨を降らしている重そうな雲にどこか似ていた。テーブルに突っ伏す。腕を枕にしたが、血流の滞りに気持ちの悪さを感じて、止めた。テーブルに直接頬をつけて、目を閉じる。

 心の中の私は寝転んだまま、現実の私と同じように顔を横にして、地面に頬をつけていた。渇ききった砂のじゃりじゃりとした感覚が頬に伝わる。この雨は、何も潤すことがない。潤す必要のあるものが、この世界にはないのだから。ただ全ては渇いている。私という存在も、この土も、喉に刺さるような空気も。それは悲しいことだろうか。わからなかった。私にとって、この世界は、ずっとこの世界でしかないのだから、価値判断はできなかった。不満を感じたこともない。比較するものがないのだから、感じようもない。望みもない。ただ、この場所はこのままここに在り続けるのだろう、という確信だけはあった。それだけだった。

 酷くなってきた頭痛に、私は仮眠をとることにした。キッチンから気怠い体を引きずり、ベッドへ滑り込む。寝転んだところで、頭痛がすぐに良くなるわけでもなかった。経験則からいえば、仮眠は偏頭痛によく効いた。目が覚めたときには、少しは枠になっているかもしれない。脱力と共に、凝り固まった首と肩の筋肉を感じる。偏頭痛の原因は、筋肉の凝りだろうか?それともほかの何かだろうか。…考えたところで、頭痛が良くなるわけでもない。つまり、それも大した意味がなかった。私は目を閉じて、深呼吸をする。息を吐くと、体の余計な力が抜けていくことがわかる。リラックス、という言葉が脳裏を掠めた。酷い偏頭痛を抱えながらのリラックスとは、随分と皮肉なものだ、と思った。

 荒野の雨は悪化していた。しとしとと降っていたそれは、すでにざあざあと音を立てるようになっていた。豪雨、と言ってもいいだろう。私は、仰向けになってそれを真正面から受け止めていた。頭痛は相変わらず酷かった。右目の奥は眼球が破裂するのではないかと錯覚させるほどに、痛んでいる。

 現実の私と、荒野の私が重なり始めた。私は微睡の中にいた。感覚が、少しずつ重なり合い、混ざり合い、融けていく。強い雨の音が、現実のものなのか、この荒野のものなのか、もはや私に区別はつかなかった。私はあえて目を開くことをしなかった。目を開いた先にベッドが見えるのか、それとも荒野が見えるのか。その二つに大差はない。

 どちらにも、私しかいない、雨に支配されただけの世界なのだから。

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