第十三章 魂の共振と深淵の呼び声

「星見の丘」の頂、黒曜石の祭壇の前に座り、私は意識を集中させた。胸ポケットから取り出した瑠璃色の羽根を左手に、そして祭壇に突き刺さっていた一際大きな羽根に右手をそっと触れる。冷たく滑らかな石の感触と、羽根から伝わる微かな振動。目を閉じ、深呼吸を繰り返す。


「楽園」で教え込まれた精神集中の技術――雑念を払い、意識を一点に研ぎ澄ますのではなく、むしろ流れに身を任せ、その中心で静かに己を保つ。時任の言葉も脳裏をよぎる。「無心になるのではない。流れを受け入れ、導くのだ」。


最初は、圧倒的な力の奔流に飲み込まれそうになった。瑠璃色の羽根が放つ清浄なエネルギーは、時に激しく、時に穏やかに、私の精神の隅々まで浸透してくる。それは、心地よくもあり、同時に、個としての自分を溶解させてしまうような怖ろしさも孕んでいた。


何度か意識を失いかけ、その度に溝呂木さんの現実的な声や、傍らで心配そうに私を見守る守り手の気配に引き戻された。


「おい、嬢ちゃん、無理はするなよ! 顔色が土気色だぞ!」

溝呂木さんの声は、荒々しいが不思議と安心感を与えてくれた。彼は、私がこの奇妙な精神の旅路から逸脱しないように繋ぎ止める、現実世界の錨のような存在だった。


徐々に、私は力の流れを掴み始めた。それは、激流を乗りこなす小舟のように、あるいは風を捉えて舞い上がる鳥のように、羽根のエネルギーと自分の精神を同調させ、その流れをわずかながらも制御する感覚だった。


そして、意識は再び、倉持栞さんの悪夢の世界へと飛んだ。


以前よりも鮮明に、そしてより深く。私は、暗くねじれた回廊を逃げ惑う栞さんの傍らに、意識体として寄り添うことができた。


「栞さん! 私の声が聞こえますか!」


彼女は最初、怯えたように私を拒絶したが、私が根気強く語りかけ、瑠璃色の羽根の清浄な光を彼女に向けると、次第に落ち着きを取り戻し始めた。


「あなたは……誰……?」

「私は、あなたを助けに来ました。ここは、あなたの心が作り出した悪夢。でも、あなたはここから抜け出せる」


私は彼女の手を取り、光の糸を紡ぐように、悪夢の迷宮に出口へと続く道筋を示した。しかし、それを阻むように、あの「黒い影」が立ちはだかった。影は、今やより明確な形を取り始めていた。それは、古代の神官か呪術師のようなローブを纏い、顔の部分は深い闇に包まれているが、その奥から底知れぬ悪意と飢餓感が滲み出ている。


『邪魔をするな……小娘……その魂は……我のものだ……』


影は、低く唸るような声で囁き、冷たい絶望の波動を放ってきた。それは、小夜自身の心の奥底に潜む不安やトラウマを刺激し、精神を内側から蝕もうとする。雨宮の事件で感じた無力感、過去の孤独な記憶――。


「くっ……!」


現実世界でも、私の顔は苦痛に歪んでいたのだろう。溝呂木さんが、何かを察して私の肩を強く掴んだ。

「しっかりしろ! そいつのペースに飲まれるな!」


その声に我に返り、私は影の精神攻撃に抵抗した。薬草や毒物の知識は、精神作用の本質を見抜く助けとなる。影の攻撃は、恐怖という名の強力な毒。だが、毒の性質を理解すれば、対処法も見えてくる。


私は、栞さんを守るように立ち、瑠璃色の羽根の力を増幅させ、影に向かって放った。清浄な光と影の闇が激しく衝突し、悪夢の世界が激しく揺らぐ。影は苦悶の声を上げ、わずかに後退した。


まだ、影を完全に消し去ることはできない。だが、その正体と、弱点の一端に触れた気がした。影は、純粋な光と、揺るぎない意志の力を恐れている。


意識を現実に戻すと、私はひどい疲労感に襲われていた。だが、確かな手応えもあった。栞さんの精神は、悪夢の深淵から少しだけ引き上げられたはずだ。


しかし、安堵する間もなく、「星見の丘」の雰囲気が一変した。瑠璃色の羽根の輝きが急速に失われ、清浄な香りが薄れていく。代わりに、あの金属質で獣じみた、不快な匂いが漂い始めた。空には暗雲が垂れ込め、守り手の姿も、先ほどよりずっと弱々しく、半透明の身体がさらに透けて見える。


「どうやら、お気に召さなかったようだな」溝呂木さんが、周囲を警戒しながら吐き捨てるように言った。「あの影、俺たちの邪魔に気づいて、本気で潰しにかかってきたか」


祭壇に突き刺さる大きな瑠璃色の羽根も、その輝きを失い、表面には黒い染みのようなものが浮かび上がっている。影は、この聖域そのものを汚染し、その力を奪おうとしているのだ。


守り手が、苦しげに私を見つめ、最後の力を振り絞るように、新たなビジョンを送り込んできた。

それは、古代の儀式の光景だった。月蝕の夜、星々の力が地上に降り注ぐ中、特別な素材で作られた護符を使い、邪悪な存在を封印するシャーマンたちの姿。そして、その護符を作るために必要な二つの触媒――『月の雫』と呼ばれる、聖なる泉の底で月光を浴びて結晶化した水晶と、『太陽の欠片』と呼ばれる、活火山の火口付近で太陽エネルギーを凝縮して生成される紅蓮色の鉱石。


「月の雫と……太陽の欠片……」


それらを手に入れ、再び月蝕の夜――それは皮肉にも、雨宮が儀式を行おうとしたのと同じ周期で巡ってくる――に、この祭壇で封印の儀式を行わなければ、栞さんを完全に救うことも、影を完全に滅することもできない。そして、それらの触媒は、それぞれ異なる危険な場所に隠され、強力な何かに守られているという。


目の前に示されたのは、さらなる困難な試練だった。だが、私の心に迷いはなかった。


「必ず、手に入れてみせます」私は、弱々しくなった守り手に向かって、力強く宣言した。「そして、栞さんを救い、あの影をこの聖域から完全に消し去ります。どんな犠牲を払ってでも」


溝呂木さんが、私の隣に立ち、ニヤリと笑った。

「面白くなってきたじゃねえか。どうやら、ただの探偵稼業じゃ、退屈で死んじまいそうだ」


私たちの新たな戦いが、今、始まろうとしていた。

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