第8話 苦労したけど功は無し

車のドアが、トン、と遠くで閉じられる音がした。

はっとして目を開けると、吉昌は車の後部座席に座っていた。
キョロっと周りを見ると、他の車に乗り込んでいる部下たちの姿が映る。

そこへ──

巨体の作業服男、津玖流がニコリと微笑みながら顔をのぞかせた。

「それ、お土産です」

彼は座席の隣に積まれた箱を指差す。

「……アイスワインはお兄さんに渡してください。お誕生日プレゼントです」

「あ、明日だもんな、アイツの誕生日」

吉昌はぼんやりと答えた。

「あなたには、氷室チーズと、低温熟成味噌と……」

「もういい! 相変わらず、氷室でなんでも作りやがって!」

吐き捨てるように言ったものの、どこか懐かしい気持ちもあった。

津玖流は爽やかに笑い、ドアを閉めようとする──が。

「そうだ!」

吉昌はドアを押さえ、遠くを指さした。山が一部崩れている。

「いつ土砂崩れしたんだ?神社が埋まってたぞ。

 あそこ、封印の氷室があった場所じゃねえのか?」

津玖流の顔色が一瞬で変わった。
そして、あからさまに慌てた様子で、バン! とドアを閉めた。

「そ、そ、それでは、お気をつけて!」

「お、おい!? 津玖流!」

車列が動き出す。
五台の黒塗り車が、氷室大学の門をくぐり、山道を下り始めた。

吉昌は座席に身を沈め、大きく息を吐く。
ようやく終わったのだ。あの怒涛のような一日が。

雨はすっかり上がっていた。
山の斜面は、若葉がきらきらと光をはね返し、
先ほどまで吹き荒れていた嵐が嘘のように、空は清々しく澄み渡っていた。

「……来た時の嵐が、嘘みたいだな」

窓の外を眺めながら、吉昌は目を細める。

自然と、あの光景が脳裏に浮かんできた。

まるで万物の芽吹きを慈しむかのように、
静かにひとり春を見つめていた──紅子の横顔。

「……詩人だな、あいつは」

ぼそっと呟き、シートに深くもたれた。
ネクタイをゆるめ、息を吐く。
心地よい疲労感が体を包み、まぶたが自然に閉じていく。

(……まあ、悪くない一日だったかもな)

考えてみれば、部下たちからの評価も少し上がった。
機材も手に入った。
病院部門も、開発部門も、会社の未来に期待している。

(ああ、たまにはこういうのも…。)

吉昌は、静かに目を閉じた。
満ち足りた気持ちのまま、車は山を下り続ける──。

……

どれくらい走っただろうか。
ゆるやかなカーブを抜け、山道も終わりに近づいたころ。

吉昌はふと、目を開けた。

(……ん?)

なぜか、心に引っかかるものがあった。
胸に小さな違和感が、針のようにチクチクと刺さる。

(俺は……どれくらい金を使った?)

ぼんやりした頭で思い出す。

ダビンチ、買った。
PET/MRIも。
X線回折機、非破壊X線、質量分析装置……。

(えっと、ダビンチは……3億? いや、中古だから1億で……)

吉昌はポケットからスマホを取り出し、電卓アプリを立ち上げる。
指先でポチポチと金額を打ち込んでいく。

(MRIが15億のやつで……え? 違う、これは新品の値段だ。


 うちは中古、えーと、それでも……)

額にじっとりと汗が滲む。

(ちょ、ちょっと待て、なんだこの桁……)

電卓アプリに並ぶ金額の合計は──
「え…………」

目が点になる。
指が止まる。
思考が、一瞬、空白になる。

「な、なんだこの金額はぁぁぁぁぁあああああ!!!」

叫び声に運転手がこちらをチラッと心配そうに見る。
吉昌は首を振ってごまかした。

「俺は! 俺は!! 氷室大学を救いに来たんじゃねえ!!!」

ガタン、と車体が揺れる。
シートに沈み込んだ吉昌は、天井を見上げて脱力した。

夕焼けに染まった山道を、黒塗りの車列は走り続ける。

どこからともなく聞こえてきたカラスの声。

「あほー、あほー」

いや、きっと聞き間違いじゃない。


「くそぉ、なんなんだあああああああああああ!!!」

涙がちょちょぎれる吉昌であった。


************************************


──そのころ、氷室大学のラウンジでは。

紅子が、静かに扇子を畳みながら、にこりと微笑んでいた。

「……苦労したけど功は無し、などと、今頃社長様は思っておいででしょうか?」

澄んだ声で、楽しげに呟いた。

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