第7話 清く正しく学問を
疲れきった吉昌は、出口へ向かって足を引きずるように歩き出した。
社長室長が、冷や汗を拭いながら後を追う。
「そ、それにしても……すごい金額の機材ばかりで驚きましたな」
病院部門トップが当然のように応じた。
「こんなもんですよ」
開発部門トップも鼻で笑う。
「年収一千万もない室長殿には、大金でしょうな。だが、我々の研究開発にはそれだけの投資が必要なんですよ。
最新の研究は、最新の機材から!」
「今後は夢次元の成果を、低予算で求めないでいただきたい!」
室長は部下たちを睨みつけ、苦々しげに口をつぐんだ。
玄関のガラス戸から、明るい光が差し込んでいた。
嵐はすっかり去り、まばゆいほど新緑がきらめいていた。
吉昌が目を細めた。
「……来たときの嵐が、嘘みたいだな」
紅子も、濡れた緑を見つめて小さく感嘆の息を漏らす。
「美しいですわね」
まばたきもせず、雨上がりの景色をじっと見つめている。 そして、ぽつりと詩のような言葉を紡いだ。
「木々は喜びに満ちて芽吹き、泉は細く流れ始める……」
吉昌はそっと言った。
「……詩人だな」
紅子は答えなかった。ただ、春の光景に心を奪われていた。
すーっと一筋の涙が頬をつたった。
「おい?」
吉昌は戸惑う。
それでも紅子は、風景から目を離さずにつぶやいた。
「万物が時節を得て生きることを、愛おしく思いますわ」
その言葉が、胸に染みた。
気がつくと吉昌も、彼女の横顔に見惚れていた。
美しい……。
ふいに紅子が振り返り、ニッコリと微笑む。
「社長様? ……まあ、お顔が赤いですわ」
「い、いや、たぶん光のせいだろ!」
顔を背けて、そそくさと離れる吉昌。 胸がどきどきして、息がうまくできない。
(くそ……オークション疲れだ。息切れ、動悸、ほてり、全部そのせいだ!)
ネクタイをぐいっと引き直し、深呼吸を繰り返す。
「それにしても……」
見送りについてきた学長に、ふと問いかける。
「おまえらの口座はうちの系列銀行だろ? あんな高額機材、買った記録なかったよな?」
学長はへらりと笑った。
「もらい物よ」
「……は?」
「患者さんからのプレゼント」
「プレゼント!? 億越えの機材が!?」
学長は悪びれずに続けた。
「ほら、うち、低温手術やってるでしょ? マイナス196℃でがん細胞を凍らせるやつ。 あれで助かった患者さんが感謝だってくれたの」
病院部門トップが感心する。
「さすがですなあ。低温手術とは素晴らしい」
開発部門トップも頷く。
「氷室大学さんの氷点下研究、やはり只者ではない」
学長はケラケラと笑った。
「それから、MRIとかはメーカーからのお礼。 ちょっとアドバイスしただけなんだけどね〜」
病院トップが納得するように言う。
「なるほど病院で使っているMRIはマイナス269で冷やしますからなあ。氷室大学さんの得意分野だ」
紅子は、震えるように言った。
「思ったとおりでしたわ……。私の一族も、贈り物をいただき、困ったときにはそれが助けになっていた……。 やはり、千年たっても変わらない、私の一族」
学長が心配そうに声をかけた。
「紅子様?」
紅子はそっと涙をぬぐった。
「良い心には、良い報いがございますわ! これからも、清く正しく学問を続けてくださいませ」
それから、にっこりと宣言した。 「そして、小さな親切で、大きなお世話を受けましょう!」
そのとき── 室長が怒りの声を上げた。
「ちょっと待て! もらい物を売ったのか? ズルイぞ!」
ピキッ。 何かが凍りついた音がした。
──絶対零度の静寂が、一堂を瞬時に包み込んだのであった。
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