第9話 追憶――フラッシュバック

 轟音と衝撃。

 瓦礫は無慈悲に降り注ぐ。

 肉体の感覚は、もうない。思考も、まるで壊れかけのコンピュータのメモリが断片化していくように、途切れ途切れになっていく。

 意識が、冷たく重い、しかし優しい闇の中へと沈んでいった。

 深く、深く――

 健太という人間の「存在」そのものが「魂」が、希薄になっていく。


(……あぁ……また……ダメだったのか……俺は……)


 薄れゆく意識の中で、健太は自嘲めいた思いを抱いた。

 結局、何もできなかった。

 この世界でも、ただ無様に死んでいくだけ。

 前世と何も変わらないじゃないか。

 いや、ある意味、もっと悪いかもしれない。

 あの時は、少なくとも誰かに看取られることもなく、オフィスで静かに孤独にブラックアウトしただけだったのだから。

 今は、なんだ?

 自分はこの世界で何をなしただろうか?

 結局、これは今際に見た夢だったのか。


(……穏やかに……暮らしたかった……ただ……それだけだったのにな……)


 そのささやかな願いすら、もう叶わない。

 闇が、全てを覆い尽くそうとした、まさにその瞬間。


 光。

 光が。

 健太の意識の中に、不意に、温かい光が灯った。


 それは、この異世界の、どこか無機質で、時に残酷な光ではない。もっと懐かしく、もっと優しい、遠い遠い記憶の光。

 闇の中に、光の断片が浮かび上がる。ぽつぽつと、次々に、溢れるように――それらは無数に闇から湧き出して、螺旋を描く。

 いつしか生まれた二重螺旋が健太の意識を引き寄せる。

 その中央へと、惹かれていく。

 それは、彼の魂に刻まれた記憶の渦。

 渦の中には無数の窓があった。

 窓の奥には、懐かしい景色が広がっている。

 

(あれは……)

 

 彼が「佐藤健太」として生きた、日本での記憶だった。


 最初に映し出されたのは、縁側から柔らかな陽光が差し込む、古い一軒家の一室。

 まだ幼い自分が、古びた畳の上で、小さなプラスチックのブロックを積み上げている。

 その傍らでは一人の男性が、分厚い専門書とノートパソコンに向かい、静かに、しかしリズミカルにキーボードを叩いている。


――叔父さんだ。


 早くに両親を亡くした健太にとって、唯一の肉親であり、育ての親。

 口数は少なく、感情をあまり表に出さない人だったのを覚えている。

 食卓に賑やかな会話が並ぶことは稀で、健太はいつも、叔父の大きな、どこか寂しげな背中を見ながら一人で遊んでいた記憶がある。

 だが、叔父は決して健太を疎んじていたわけではなかった。

 ぶっきらぼうな優しさ。それが叔父の、不器用な愛情表現だった。

 叔父はいつも健太のそばにいた。

 そして、叔父の仕事はプログラマーだった。


 ある晴れた午後。

 いつものように一人で遊んでいた健太に、叔父が珍しく手招きをした。叔父は、鈍色の光を放つパソコンの画面を指差した。

 そこには、幼い健太には理解できない記号の羅列――コードが表示されていた。


「健太。これはな……」


 叔父は、いつものようにそっけない声でいった。

 

「お前が、お前だけの世界を創り出すための、魔法の呪文なんだ」


 魔法。

 叔父の口から出た言葉は幼い健太にとってあまりに意外だった。

 その言葉と共に、叔父の太く、節くれだった指がキーボードの上を滑らかに動き、画面の文字がまるで生き物のように形を変えていく。

 

「いいか、健太。コードは嘘をつかない。書いた通りに動く。正しい命令を与えれば、必ず期待に応えてくれる。だから、面白い」


 そう言って、叔父は健太に、プログラミングの基礎を、まるで秘密の呪文を教えるかのように、少しずつ、丁寧に教え始めた。

 画面に文字を打ち込むと、まるで魔法のようにコンピューターが反応し、健太の描いた線が動き出す。いくつかのコードを組み合わせると、画面の中にカラフルな絵が現れたり、簡単なゲームが動いたりする。

 それは幼い健太にとって、驚きと興奮に満ちた、魔法の体験そのものだった。


「一つ一つの命令は、本当に小さなことしかできない。だがな、それを正しく、根気よく積み重ねていけば、やがて大きなことができるようになる。世界だって創れるんだ。……まぁ、バグのない世界を創るのは、神様でも難しいかもしれんがな」


 叔父は言葉少なだったが、コードの一つ一つの意味を、構造を組み立てる面白さを、そして何よりも「創り出す」ことの喜びを、その大きな背中で、そして時折見せる、不器用で優しい眼差しで健太に教えてくれた。

 それは叔父なりの愛情表現だったのだろう。

 人づきあいが苦手で、仕事と結婚したような人だった。

 そんな叔父が健太とコミュニケーションをとろうと精いっぱい考えた結果、彼は自分の技術を伝えることにしたのだ。

 日本一のハッカー「無口な魔法使いサイレントウィザード」として。

 健太もまた、叔父の「魔法」に、あっという間に魅了された。

 叔父の教えを、乾いたスポンジが水を吸うように吸収し、驚くべき早さでプログラミングの才能を開花させていった。

 

「焦らなくていい。自分のペースで、一つ一つ、納得いくまで理解していくことが大切だ。……エラーが出たら、それはお前が何か新しいことを学ぼうとしている証拠だ。成長のチャンスだと思え。大丈夫、ちゃんと向き合えば、必ず答えは見つかる」


 二人の間に、多くの言葉は必要なかった。

 プログラミングという共通言語を通じて、確かに二人の心は深く、静かに通い合っていた。健太にとって、プログラミングは叔父との大切な絆そのものであり、そして、自分の手で、自分の思い通りに動く「世界」を創り出せる、唯一無二の魔法だったのだ。


「健太、コードは鏡だ。自分自身を映す。だから、お前が誠実である限り、コードはお前を裏切らない」


 だが、そんな幸せな時間は、永遠には続かなかった。

 健太が高校生になった頃だった。

 叔父は、ある日、自ら命を絶った。

 叔父は、共にソフトウェア会社を経営していた共同経営者に裏切られた。

 会社の権利、寝る間も惜しんで開発したソフトウェアの権利、そして、必死に築き上げてきた顧客との信頼……その全てを、巧妙に仕組まれた罠によって、根こそぎ騙し取られたのだった。

 その絶望は、叔父の魂を八つ裂きにした。

「……どんなに辛くても、健太。お前は、お前自身の足で立って、生きていくんだぞ。……誰かのせいにしたり、何かに逃げたりするな。……自分の人生の責任は、自分で取るんだ」

 それが、叔父が健太に遺した最後の言葉だった。


 健太は再び、天涯孤独の身となった。

 悲しみと絶望の中で、行く当てもなく途方に暮れていた彼に声をかけてきたのが、皮肉にも、叔父がかつて経営し、そして無残に裏切られた、あの会社だった。叔父の無念を知っていたはずの会社の人間たちは、何食わぬ顔で、表向きは親切そうな言葉を並べ、健太を社員として迎え入れた。

「君の叔父さんには、本当にお世話になったからね」「君の才能を、ぜひうちで活かしてみないか」と。

 当時の健太は、まだ叔父が具体的に誰に、どのように裏切られたのか、その詳細を知らなかった。叔父が命を絶ったのも、単に会社の経営が悪化したためだと聞かされていたのだ。それは、叔父を裏切った者たちが流した、巧妙で、悪質な嘘だった。


 そして、健太の"あの"地獄が始まったのだ。

 叔父との絆であり、自分だけの世界を作る魔法だったはずのプログラミングは、その会社に入社してからの日々の中で、ただただ心身をすり減らすだけの、苦痛に満ちた「労働」へと変わっていった。終わりの見えない長時間労働、上司からの人格を否定するような理不尽な罵倒、そして、自分が必死に作り上げた成果物の搾取。それは、叔父が絶望し、自ら命を絶つ原因となった会社の、腐りきったシステムの、その歪んだ現実の片鱗だった。


 来る日も来る日もコードを書いても、そこに健太自身の意思はなかった。あるのは、刻一刻と迫りくる納期と、上司のヒステリックな怒鳴り声、そして、日に日に鉛のように重くなっていく疲労感だけ。自分の創り出す世界など、どこにも存在しなかった。ただ、消費され、使い潰されるだけの歯車。それが、健太の現実だった。

 

「……仕事はな、健太。誰かのためにするものだ。人の役に立つために、するものだ。……だがな、自分自身を殺してまでするものじゃない……。お前は、お前自身の人生を、もっと大切に生きなきゃダメだぞ……」


 いつか叔父が、疲れ切った顔で、ぽつりと漏らした言葉が、皮肉にも現実となって健太に重くのしかかる。


(叔父さん、俺たちは……どこで間違えたのかな……)


 記憶はそこで、ふっと途切れた。

 瓦礫の重みも、体の痛みも、もう感じない。

 ただ、深い、深い静寂だけが、健太の意識を包み込んでいた。

 それは、死の安らぎなのか、それとも、新たな何かの始まりなのか。

 今の健太には、もう何も分からなかった。

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