第26話・愛情! 心に染み込む母の味①
アーケードがある商店街を通り抜ければ、地下鉄の駅がある。それで関内駅に出て、横浜スタジアムを越えれば中華街。秘密結社センガインに出勤し、シュチ・ニクリーン様に報告しないと。
その場を離れようとしたが、定食屋さんから声が響いて、私はそれに足止めされた。
「桃香、帰ってきたの? 今日はどうだった?」
「引き分け。レッドが、そう言うんだもん」
「あら、そう……次は頑張らないとね」
声と会話の感じから、ボイル・ピンクこと桃香。相手はその母親か、親類縁者だと睨んだ。しかし何より驚かされたのは、スイハンジャーの活動をあけすけと話していることだった。
これは一歩も動けない、店先で聞き耳を立てていなければ……というのも、無理があった。
日曜日の朝とはいえ、ここは下町の商店街。待ち合わせ場所にならない店先で、リクルートスーツを着込んだ女が佇んでいるのは、どう考えても変だ。
もう少しだけでも会話を聞いていたいが、焦りは禁物だとして一旦退却しようかと思った矢先。
ガラガラッと引き戸が開いて、ボイル・ピンクの正体が黄ばんだ
朝ご飯は、パンをひとつかじっただけ。軽いものなら食べられるから、調査を兼ねて早めのお昼ご飯にしようかと、店内に入る。
油が染みた椅子とテーブル、ビッシリと壁に貼られたメニューの短冊、隅に私物があるカウンター。スクリーンの中に迷い込んだ、そんな気持ちにさせられて、ふわふわとして落ち着かない。
適当なテーブル席につくと、使い込んだエプロンと三角巾を装備したボイル・ピンクがお茶を出す。
「ご注文が決まりましたら、お呼びください」
それだけ言って、厨房というか台所に引っ込む。さっきまで会話していたであろう女性は、ボイル・ピンクの正体とよく似ている。やはりこのふたりは母娘だろう。正体を明かせなかった私たち母娘と、つい比較してしまう。
ああして、微笑みを送り合った日は、私たち母娘にもあったかも知れない。思い出せないくらい遠い記憶になってしまった。
台所に並んで立つのは、なかったな。お母さんはメイド任せで料理はしない。台所に立っても、仕事のお客様をもてなすためのブイヤベースを作るだけだ。お抹茶を
見合いを匂わせる一環で、ミートローフくらいは作れないと、なんて言われた。でも、教えてくれる気配はないし、そもそもお母さんはミートローフを作れない。メイドに教われ、という意味だった。
ドラマや映画で目にする母娘、本当にあるんだ。カウンター越しのふたりが、スクリーンの中にしか見えない、なんて不思議な気持ちになっていた。
じっとふたりを見ていたせいか、ボイル・ピンクの正体が目を合わせ、パッと笑いかけてきた。
「ご注文、お決まりですか?」
しまった。セットのつもりで眺めていたから、何も決めていない。ええい、こういうときは、いつもの手だ。
「おすすめはありますか?」
ウェイターもソムリエも、うんちくをたっぷりにして勧めてくれる。ここでも同じだろう、と思っていたが、ボイル・ピンクの正体は質問を返した。
「納豆、食べられますか?」
「いえ……」
こう見えて関西だもの、納豆を食べる文化は希薄よ。食べたことさえないわ。
「そうよね、その格好だものね。お魚は?」
「食べられます」
鯛とかフグとか甘鯛とか、繊細で美味しい。そろそろハモの季節ね、楽しみ。
「じゃあ決まり。アジ定、一丁!」
アジテイって何!? 得体のしれないものを、私に食べさせようっていうの!?
おのれボイル・ピンクめ、アタイをハメようって魂胆かい?
台所でもうもうと煙が立つと、嗅いだことのない臭いが漂ってきた。木目調のドラムから白いご飯、ボコボコにへこんだ金の鍋から味噌汁が、器に盛りつけられていく。平たい皿には平らな青い魚が載せられて、最後に小鉢がお盆に載った。
「お待たせしましたー、アジの開き定食です」
ボイル・ピンクの正体が、ニッコリ笑って配膳をした。これがスイハンジャーの秘密兵器、アジテイか。
小さな魚が腹開きにされ、焼かれている。鰻では腹を割って話そう、だけどここは関東。切腹しろ、という意味かい? それに白いご飯と、大根の味噌汁、肉じゃが。これでいくらだってんだい? 秘密結社センガインの財力を甘く見ちゃあいけないよ。と、壁の短冊からアジの開き定食を探す。
「五百円!?」
声が裏返ってしまった。
「あ……すみません。私が決めちゃったので、持ち合わせで結構です」
「いやいやいやいや、払います、払えます、お釣りの準備をお願いします」
「失礼しました、ごゆっくり」
ボイル・ピンクが立ち去った。厨房に収まって、母親と支度の続きをはじめる。私は切腹した魚を、箸でつまんで口へと運んだ。
な、な、な、何だこの味は!? 旨味が口いっぱいに広がっていく。何という味の良さ、そうかだからアジなのか。安直だが恐るべし、スイハンジャー。
私は最大限に警戒し、アジを食べ進めていった。
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