第2話



 残されたメリクは一瞬そうなのか、と思った。

 だが次の一瞬には子供特有の好奇心なのか……その時メリクの足を動かしたのが一体なんだったのか――その後々まで彼自身不思議に思うのだが――とにかくメリクは部屋から出てリュティスのあとをすぐに追いかけたのだった。


 子供というのは得てして根拠の無い直感を強く信じるものだったが、その時のメリクにもまた、リュティスがそういう自分を許してくれるだろうという根拠の無い自信があった。


 抱える白い花がメリクの罪悪感を鈍らせていたのかもしれない。

 とにかく通ったことの無い廊下を抜け、階段を上がった。

 途中でメリクの姿を見つけた衛兵達も、この少年が王妃アミアカルバの特別な客人だと知っている為か、止めることも無く道を通してしまったのである。



 もしあの時のメリクがもう少しだけ何かを知っていれば。


 決してそこには立ち入ることは無かった。

 


 リュティスが通り過ぎたばかりの、サンゴール国紋が描かれた大きな扉をすり抜けて入った場所がどこなのか分かっていれば。

 ……誰かにとっての聖域だと分かってさえいれば、きっとメリクはもっと注意深く慎重にそうしたはずだった。

 少なくともリュティスが笑顔でメリクを迎えてくれるはずも無いことくらいは分かったに違いの無いのだから。



 急に人の気配が周りから消えた。

 リュティスを見失いきょろきょろしていると、不意に聞こえて来たのである。


「久しぶりにこんな晴天なんだ。たまには外を歩きたいよ」


 それはいかにも優しげで、聞いているだけで心惹かれる様な声だった。

「アミアが駄目だって言うんだ。庭園だけでいいのに」

「ガルドウームの使者を城下の別邸で、国王は病だと押しとどめている最中だ。黙って寝ていろ」

 リュティスの声だった。

 メリクはそちらへと近づいて行く。

「会わずに帰すのか?」

「あの国に介入などしてサンゴールが得るものなど何もあるまい」

「どうやらひどい国勢事情のようだね」


「……そのことはいい。半年後のサンゴール騎士団長任命式がお前の目下の仕事だ。あれには王妃の代わりが効かんからな。正式に王位継承権を許された男子にしか任命権はない。これ以上あの女の為に例外は作らんぞ」


「分かってる、それはまかせてくれ。やり通すよ」

 リュティスの言葉はいつものように必要なことしか言っていなかったが、しかしメリクには聞こえて来るリュティスの声が、心なしか柔らかいように感じられた。

「来月の神儀には私が代理で出る」

「アミアはサンゴールの神儀にまだ慣れてないからな……手ひどく失敗しないように気を配ってやってくれ」

 返事は無かったが、グインエルがリュティスを自分の右腕として信頼していることが分かる、そういう会話だった。

 そしてそのことが、リュティスを慕うメリクにとって妙にグインエルという存在に親近感を抱かせたのである。

 幼いメリクはすぐにこの優しい声の持ち主、サンゴールの民に【光の王】とも讃えられる……そしてリュティスでさえ穏やかにさせる第一王子に会ってみたいと思った。


 そのままゆっくりと声の方へと近づいて行った。

 その時だった。



「――リュティス?」



 声がした。

 メリクの前ですぐに扉が開く。

 顔を上げると第二王子リュティスがそこに立っていて、ここまでついて来たメリクを見つけると彼はあからさまに眉間に皺を寄せた。

 そしてそのままメリクの手に抱えられた白い花に視線を移して……再び少年の顔を見た時にはもう、リュティスの顔に表情は無くなっていた。


 そんなリュティスの顔は初めて見るものだった。


 彼はそのまま扉を閉じた。

 大切な宝石箱の蓋を慎重に閉める時のように、片腕でしっかりと扉を押し終えると。

 コツ……、とゆっくりリュティスは近づいて来て、彼は初めて敢えて自分の方からメリクの翡翠の瞳をその【魔眼まがん】で見据えたのだった。


 ――パァンッ!


 躊躇いは無かった。

 リュティスの手の平がメリクの頬に決まり、不意をつかれたメリクはその拍子に床に倒れ込む。

 抱えていた白い花が盛大に散らばった。


「リュティスさま……」


 悲しみも何も無い。

 あったのは驚きである。

 メリクは驚いていた。

 そして驚いてリュティスの顔を見返したその思慮の浅ささえ、第二王子は強く軽蔑したようだった。


 リュティスはメリクの首根っこを持ち上げると、そのまま廊下を引きずるようにして歩き、王の部屋を外界と区切る大きな扉の外へとメリクを乱暴に投げ捨てた。

「リュティスさ……」

 何かを言おうとしたメリクの言葉をリュティスは許さなかった。


 アミアがメリクというこの子供をサンゴール王宮に連れ込んでから、リュティスは色々な、苦々しく思うことを自分なりに許して来たつもりだった。


 例えばメリクのこの、サンゴールの者だったらば決してしようとも思わないだろうリュティスの瞳を気安く覗く仕草さえ、リュティスにとっては強く嫌悪する行為だったが、子供のすることだと敢えて口にはしなかった。

 メリクという存在がもたらす不調和、未来への凶兆――同じように思慮の浅く情に流されやすいアミアの代わりに、リュティスが誰よりもそれを憂慮して来た。


 だがそれも、黙っていた。

 その黙認して来たことがメリクの生意気な精神を助長することが分かった今、リュティスは物事の見方を一変させたのだった。


 自分の身に対するメリクの単純な馴れ馴れしさなどではない、この子供は思い違って立ち入ってはならぬ所まで立ち入って来たのだと、リュティスの感じたメリクへの嫌悪はかつて誰にも味わったことのないようなものだった。


【沈黙の王子】と揶揄されるリュティスだが、彼は決して喋れないのではない。

 感情を乱すことが無いのでもなかった。

 むしろ怒りと誇り。

 ――それだけがリュティスをサンゴール王家の難解な呪縛の中で生かして来たのだから。

 自分が苦しみの中で見出して来た大切な場所にまで、メリクは何の前触れも無く立ち入って来たのである。


「思い上がるな、メリク」


 リュティスの唇から漏れたのはひどく激しい怒りの呪言だった。




「王家に紛れた異端の分際で‼」




 響いたリュティスの怒声に階下にいた衛兵が、ぎょっとしたようにこちらを見上げていた。

 メリクにはリュティスの言った言葉の意味が咄嗟に分からなかった。

 だがその怒りの言葉だけははっきりと脳裏に刻み込まれた。

 真紅の薔薇の棘のように鮮烈に、メリクの記憶に傷痕が走ったのである。


「ここはお前如きが来る場所ではない‼」


 リュティスは子供を激しく怒鳴りつけると、そのまま身を翻し再び中へと去って行ってしまった。

 後には床に座り込んだままのメリクと、第二王子の怒雷のような怒りに晒された哀れな二人の衛兵が残されただけだった。



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