第3話 コート・ド・ニュイの地図

 ウフ・アン・ムーレット――ポーチドエッグにフォンド・ヴォーを使った赤ワインとキノコのソースを使ったブルゴーニュ地方の料理。


「赤ワインで作ったポーチドエッグ、相変わらず手の込んだお通しね」

「はい、ソースには頂いたフォンド・ヴォーを使わせてもらってます」


 赤紫色に染まったポーチドエッグに赤ワインベースのソースが絡まるこの料理。ワインに合わせるのが難しいといわれる卵にも大きく三つほどコツがある。まずは火を入れすぎないこと。固茹での玉子は硫化硫黄のような温泉のような匂いがするが、これがワインの風味を損なう還元臭に似ていてるのが原因だ。


 そして、ワインに合うスパイスを使い、合わせるワインに風味を寄せる。ワインの官能表現にはスパイシーと例えることがあるのだが、ワインには勿論スパイスは入っていない。発酵、熟成の過程でスパイスのような風味がでるのだが、その風味に相乗効果があるスパイスを使った料理は極上のマリアージュとなる。


 最後にソースだ。わかりやすくワインに合うソースを使った料理は説明するまでもない。


「ウフ・アン・ムーレット。岩井シェフの得意料理ね、忘れもしないわ。二〇一五年に彼と出逢った時に初めて食べた料理だもの」

「ええ、赤ワインでポッシェす茹で上げるポーチドエッグは岩井シェフに教えてもらった郷土料理です」

「あの人、地域や現地、原産には強いこだわりがある人だもの」


 そうなのだ。彼のコースには毎回テーマやメッセージ、洒落が効いている。今回もフランスから来日する客に特別な何かを仕込んでいたに違いない。


「今回のお客様って、ブルゴーニュ地方からいらしたのではありませんか?」

「ええ、その通りよ。岩井シェフの考えたコース内容とワインリストからもわかるわね」

「そして、そのための鎌倉野菜を仕入れに早朝出かけた」

 野菜の他にも使う食材の仕入先を調べれば、おおよその足取りは掴めるはずだ。肉に関しては事前に仕入れていた痕跡がある。残すは魚と卵、山菜、きのこだ。

「料理人同士が話すと仕入先の話をすることがあってですね。以前岩井シェフとも話をしたことがあるんですよ」


 魚は小田原の早川港か真鶴半島の真鶴港、卵は横須賀にある養鶏場を贔屓にしている。これらを仕入れに行く途中に事故に遭ったとすればニュースになるか、病院や警察から連絡があるだろう。それらがなく何らかのトラブルに巻き込まれるとしたら、


「山菜ときのこ、多分ヤマドリタケを取りに山に入ったのかもしれませんね」

「ヤマドリタケって、たしか」

「そう。セップ茸です。そして岩井シェフは遭難してしまった。というのが濃厚です」


 神奈川県の山ではこの季節、ヤマドリタケがあちこちに生えている。アカヤマドリタケ、ヤマドリタケ、ヤマドリタケモドキ。多分このいずれかを取りに行ったのだろう。


「その可能性はあるわね。あの人登山やきのこ狩りが趣味だし。でも何処の山に」

 ヤマドリタケは神奈川の広域に自生する、岩井シェフがどの山に入ったがわからなければ救助隊を要請することもできない。


「遭難って七十二時間の壁ってよく言うでしょう、じゃ、早く救助にいかなきゃな」

 そう、季節にもよるが遭難してから七十二時間以内に救出されるかされないかで生存率が大きく変わるのだ。すでに連絡が取れなくなってから三十六時間が経とうとしている。


「レオ、神奈川って広いのよ! 何処の山かわからなければどうしようもないじゃない」

 実果が言葉をはさむが、レオはすぐに言葉を返す。

「いや、多分わかるよ」

「「「え?」」」


 一同が驚く。レオはメモ帳に岩井が選んだ九つのワインを書くと、実果に見せる。


「ブルゴーニュ、コート・ド・ニュイのワインばかりだけどこれがどうしたの?」

「このワインリストを見て、なにか気づかない? ソムリエの実果さんならわかるはず」

「うーん? どういう事だろ、コート・ド・ニュイのアペラシオンの数だけちゃんとあるけど」


 コート・ド・ニュイには、アペラシオンというフランスのワイン法に基づく産地が九つある。岩井のワインリストはコート・ド・ニュイの産地を北から並べてあったのだ。


「フフン。実果さん、ニュイのアペラシオンを北から言ってみて」

「えっと、たしか北から……まるで(マルサネ)悲惨(フィサン)。小便(ジュヴレ・シャンベルタン)もれて(モレ・サン・ドゥニ)、水(シャンボール・ミュズィニ)に濡れ、美女(ヴージョ)にふられて(フラジェ・エシェゾー)ぼーぜん(ヴォーヌ・ロマネ)の兄さん(ニュイ・サン・ジョルジュ)」


 どうやら実果は語呂合わせで覚えているようだ。ソムリエの筆記試験に出るコート・ド・ニュイのアペラシオンの覚え方は人それぞれであるが、〝小便漏れて〟とは下品な語呂合わせだといつも思う。


「あ、一つだけアペラシオンじゃない。フラジェ・エシェゾーが無いわ」

「そう、その代わりにコローニュ・レ・ベヴィーのワインが入っているんだ」

 コローニュ・レ・ベヴィーとは、フラジェ・エシェゾーの西に位地するコミューンだ。


「でも、それが岩井シェフの入った山と何の関係があるのよ」

 ワインリストにあるワインの生産地はフランスの国道七四号線沿いにある。これを同じ南北に通る神奈川県の県道七四号線と照らし合わせてみると。


「ここ、コローニュ・レ・ベヴィーに位地するのが……」

「「「明神ヶ岳みょうじんがたけ!」」」

「御名答!」


 岩井はブルゴーニュを神奈川県に見立ててコースのテーマを作ったのだろう。そして、メインのガルニチュール付け合せに日本のヤマドリタケを選んだ。この時期のヤマドリタケはとても香り高い。普段から趣味できのこ狩りをしている岩井ならそう考えるだろう。


 レオはスマホで明神ヶ岳を管轄する警察署を調べると、腰に巻いたソムリエサロンを脱ぎカウンターに置いた。


「さあ、急いで神奈川県警、松田警察署に連絡を」

 そして、レオたち四人も車で南足柄市へと向かうのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る