第2話 出張料理人
「うん、じゃあレオに確認して折り返すわね」
涼子は昨日のシャトー・レオの周年にも来た実果の友人であり、フレンチレストランのパティシエをしている。
「涼子さん、何だって?」
「うんとね、レオにお願いがあるんだって」
「え、俺にお願いってなんだろ?」
話はこうだ。今日、涼子が勤めている代々木上原にあるフレンチレストランに、オーナー佐和子の知人のフランスから来日した大切な客の予約が入っている。早朝、特別なコースの為の鎌倉野菜を仕入れに行ったシェフの岩井が戻らず、連絡も取れないという。
ディナーに間に合わせるためにスーシェフが替わりのコースの仕込みをしているらしいが、営業時間が始まると手が足りない。そこでレオにヘルプと頼みたいのだとか。
「岩井シェフが行方不明ってことか。あの店、規模の割にスタッフが少ないからな」
代々木上原ラ・ターブル・ドゥ・サワ――フランスのブルゴーニュで修行した岩井がシェフを務める四十席の二つ星フレンチレストラン。レオとは親交があり五年前に星を獲得した時にもお祝いに駆けつけた。
「気が乗らないな。あそこのオーナーは完璧主義だからな。それにハラスメントレベルのヒステリックだし」
「そう言わずに、私の親友、涼子の為にもお願い」
「うーん、そうだな。条件がある。ラ・ターブル・ドゥ・サワのフォン・ド・ヴォーを分けてくれるならヘルプにいこうじゃないか」
「あ、わかった。さてはアンタ、今日はフォン・ド・ヴォーを仕込もうとしていたのね」
「御名答!」
レオはこの日、料理のベースとなる出汁、フォン・ド・ヴォーを仕込む予定だったのだ。仔牛の骨とスジ肉をオーブンで焼いて、香味野菜と香草で十時間以上煮込むフォン・ド・ヴォー。時間と労力と金の掛かるものであるが、味の決め手となるから手が抜けないものである。だがそれは料理で勝負をするレストランでのことであって、ワインバーなのに料理に力を入れているのは、料理人出身のレオの性分なのだ。
「本日のディナーのブリーフィングを始めます」
普段ならシェフの岩井が仕切るラ・ターブル・ドゥ・サワの朝礼は、スーシェフの福田の号令で始まった。予約の確認とコースの説明をし、仕込みの途中から厨房へ入ったレオの紹介を改めてすると、スタッフたちは各々の作業に戻る。
レオは福田に呼ばれ事務室へと行き、フランスから来日した客のコースとワインの打ち合わせを始めた。
「福田さん、ペアリングのリストを見ると泡も白も赤もブルゴーニュづくしですね」
「ああ、料理もブルゴーニュ地方のものが多いが、その食材は岩井シェフが仕入れに行ったきりで。なんとか間に合せで代替の食材の用意はできたのだけどね」
「メインで使うセップ茸、今日の今日でよく手に入りましたね」
「知り合いのイタリアンレストランに無理言って譲ってもらったんだ。ったく岩井シェフのばっちりで……チッ」
「その感じ、まだ岩井シェフとの確執が残ってるんですね」
「ああ、俺のことをいつまでもガキ扱いしやがって、三十五歳だぞ、俺。おかげでシェフとは日々、冷戦状態だよ」
セップ茸――イタリアで言うところのポルチーニ茸のこと。ヨーロッパ産のこれは、六月であるこの季節は、まだ香りも十分ではない。それにしても福田の岩井に対する言い草から推察するに、二人の雪解けにはもうしばらくかかりそうだ。
ディナー営業が始まるラ・ターブル・ドゥ・サワは人気店だけあって、あっという間に満席になった。コースだけではなくアラカルトのオーダーもできるこのレストランの厨房はレオを入れて四人。他のフレンチレストランと比べると圧倒的に料理人が少ない。かといって少数精鋭かと言えばそうでもないのだ。シェフの岩井とスーシェフの福田が戦力で、あとは並といったレベルだ。涼子はパティシエとしてのセンスは光るが、兼任する前菜のヘルプに関しては下っ端レベルである。
そんな戦場のようなドタバタの営業はなんとか及第点で乗り切ることが出来たのだが、オーナー佐和子の機嫌は悪かった。それもそのはず、予想していたシェフの岩井が用意するはずだった特別なコースには遠く及ばない普通のコースが出てきたからだ。彼女としては遠くフランスから来日した客に対して見栄を張りたかったところだろう。
しかし、そんなことレオには関係ない。福田をフォローするスーシェフとしての役割は完璧にこなした。そして、お目当てのフォンド・ヴォーを手に入れることができたレオは満足げな顔でシャトー・レオへと戻るのだった。
次の日、シャトー・レオのドアにOPENのサインが掛けられる午後六時。レオと実果はカウンターに並んで店にあるグラスを、グラスクロスで一点の曇りや水跡もなくなるように綺麗に磨き上げていく。このマイクロファイバー製のグラスクロスに住みに刺繍されたChateau Leoの刺繍は実果が施したものだ。スタッフしか触らない物にもこういうことをする実果の気遣いにはいつも感心させられる。
ベルの音と共にラ・ターブル・ドゥ・サワのオーナー佐和子と涼子が来店した。薄い生地の碧いストールを外すと持参した焼き菓子と共に、カウンターの客席側で出迎えた実果に手渡す。
「佐藤くん、昨日はありがとう。本当に助かったわ」
作り顔だろう笑顔で佐和子はレオに礼を言う。だが、ラ・ターブル・ドゥ・サワの定休である今日、わざわざこうしてお礼をしに来るところは立派なところだ。
「いえいえ、出張料理人の報酬に加えて図々しくフォンド・ヴォーまでいただいちゃって」
レオが佐和子におどけた笑顔を向けると、少し間をおいて神妙な顔をする。
「で、岩井シェフとは連絡が取れたんですか?」
「いいえ、それがまったく。一体何処に行っちゃったのかしら。自宅を訪ねても居なかったし」
佐和子の訝しげな表情の中には心配が入り混じっていた。
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