第七章 目の儀式

33.変数の方程式

「アーヴィン、アーヴィン!」


 涙で濡れた頬を、彼の外套へ押し付けるようにして腕を背へ回す。


「記録の間周辺の造りは,昔から結構複雑なんだよ。だいたい、上へ出られる算段がなかったら、悠長に調べ物なんてしてないし」


「だって、だって……」

「わかったから。ほら、泣き止んで。……サミュエル先輩の視線が痛いから」


 窮地を助けてもらった命の恩人に向けるには、少し剣呑過ぎる熱いまなざしを、アーヴィンは浴び続けていた。


「お前の本音が見え隠れする台詞のせいだ。まあ、無事でよかった」


 三人はさっきまでの場所からかなり離れた位置にいた。あの大きな天幕が、手の平と同じくらいになっている。

 古びた煉瓦の壁の陰からアーヴィンが杖を持って来た。イルマとサミュエルのものだ。


「先輩には必要ないかも知れませんが」


「うるさい。父さんにばれないためには面倒だが常に持っていないといけないんだよ」


「どこか歪んでるなってずっと思ってたんですけど、そのせいだったんですね」


「見てわかるやつなんてそうそういないからな。お前くらいだ。……黙っとけよ」


 いとおしそうに自分の指にはまった石を撫でた。


「そりゃもう。サミュエル先輩の弱みなんてそうそうないですしね」


 サミュエルが短く舌打ちをした。

 イルマも何時間ぶりかに自分の杖を握る。手の平に吸い付くような感覚に、心が静まった。


 だがそこへ、今まで聞いたこともない咆吼が響く。馬の嘶きや野生動物の警戒音とはまるで違った、その声にすら魔力が含まれている、怒りの雄叫び。


 とっさに防御の結界を張る。アーヴィンも、サミュエルも、同じように魔法を振るう。


 そのおかげで音の後に来る突風は、なんとかしのぐことができた。砂が舞い、壁が音を立てて崩れた。


「竜だ……」


 サミュエルがその音源に目をやり呆然とつぶやく。

 今や天幕は跡形もなく吹き飛び、お伽噺と信じられてきた、お話の中にしか登場しなかった竜が、その一つ目に怒りをたぎらせ宙に浮いていた。


 砂色の肌は、緻密に組み上げられた魔力を纏い、確かにあれでは単なる剣は傷をつけることすらできまい。


「鎮めなきゃ」


 もしこのまま竜が街へ向かったら、どれだけの被害が出るかわからない。イルマたちだって自分を守るのに精一杯だ。


「どうやって」


 アーヴィンが言う。当然の質問だ。

 だが、実はさっきホレスに話をしていた途中で思いついたことがある。


「ねえ、アーヴィンは下の、記録の間の方程式図案見た? 天井と床にあったやつ」

「まあだいたい覚えてるよ」

「……すごいわね。ほとんど考え込んで見てなかったでしょう」


 聞いておいてなんだが、彼の返答に驚いた。


「でも、どんな順番で方程式を解いたらああなるかは全然わからない」

 うんうん、と彼の答えにイルマは満足そうに頷く。

 そしてにこりと笑った。


「ねえ、アーヴィン。もう一度力を貸して。あなたが必要なの」


 彼は怪訝な顔をして首を傾げる。


「僕には、あんな魔力に溢れた存在を押さえる方法なんて思いつかない」

「うん。でも、アーヴィンは変数の方程式を使えるでしょう」

「何っ!?」


 サミュエルと、アーヴィンが顔色を変えた。


「お前、あれを作ったのか!?」


 詰め寄るサミュエルの手を振り払い、身をかわし、平静を装ったアーヴィンが笑う。イルマから見ればそれは苦し紛れの表情としか思えない。そうか、嘘はこうやって見抜くのか。


「何を言い出すんだ。そんなすごいものを発見してたら、とっくに――」

「ニクス」


 杖を突きつけイルマが宣言する。

 ティルムで拾った白い子猫。


「宿の中庭で何をしていたか、私が本当に見ていないとでも思った? あんなにぐったりしていた子猫が、驚くほど元気で、傷一つなかった。アーヴィンは変数の方程式を使って治癒の魔法を施した。でしょう?」


 彼は唇を噛む。


「いくらあなたでも、経験がものをいう治癒の魔法で、あそこまで回復させるのは、普通なら無理だわ。でも、その経験を補う変数の方程式があれば、可能。あのとき今まで見たこともない魔力の形が、あなたの手元に集まっているのを見たの。ねえ、竜を眠らせる手伝いをして」


「……独学で、短縮の方程式も何も作っていないけど、変数の方程式のだいたいはわかってるつもりだ。けど、それであれを鎮めることができるとは思えない」


 空を飛ぶ竜へ杖を突きつけ、珍しく感情のままに話すアーヴィンに、イルマは余裕たっぷりに首を揺らす。


「アーヴィンは私の方程式に合わせて、変数の方程式で相手の魔力のブレを相殺してくれればいい。そうすればしっかりと効くだろうから。反対に変数の方程式がなければ、竜の魔力の前にせっかくの方程式が崩れてしまう」


「君はいったい、何をするつもりなんだ」


 イルマはまた、にっこりと笑った。そして歌う。


   瞼を閉じて 睡りの泉に身を浸せ

   丸い月が 天を回る 

   無数の月が 世界を回る 

   天を貫く 四本の柱 

   円い柱が 空へと伸びる

   強い力は 螺旋を描き 

   後を追うのは 陽昇る軌跡 

   世界を箱に 閉じ込めて 

   月の睡りを 誘い出す

   二つの渦は 力の道筋

   世界を巡る 力は大地へ根を下ろす

   瞼を閉じて 睡りの泉に身を浸せ

   渦は力を天よりくだす


 アーヴィンが再び顔色を変えた。


「小さい頃よく歌ってやった子守歌だな」


「ウェトゥム・テッラ〈古王国〉の末裔は、歌や物語で重要な方程式を伝えてきた。アーヴィンが知らない歌っていうのがおかしいのよ。これもまた、竜の話をみんなが知らなかったように、六貴族に伝わってきた秘密の歌だと考えたの。で、歌の通り方程式を解いていくと、記録の間に合ったような図案に仕上がると思わない?」


 父が、インプロブ家の家紋には竜が隠れていると言った。本人が知ってか知らずかは無事帰って聞いてみないとわからないが、今なら確信できる。それは真実だと。この歌は、もしかするとインプロブ家のみに伝わってきていたのかもしれない。大昔、インプロブ家はこの目の儀式に携わって来たのではと、天啓のように悟った。家紋に竜を隠し、子守歌に秘術を隠して伝えてきた。


 新しい発見に口元をほころばせてイルマが問うと、アーヴィンはもう同意するしかなかった。


「アーヴィン、お願い。手伝って。あなたの力が必要なのよ」


 今まで、すべてを自分でやって、そうしてやっと認められると頑張り続けて来た。そのイルマが助けを求めて手を伸ばしている。

 サミュエルも、そんな二人を見つめたまま黙っている。彼にも何か思うところがあったのだろう。

 アーヴィンは諦めのため息をついて、彼女の手を取る。


「君はいつも強引だ」


「だって、強引にしないとアーヴィン動かないんだもん!」


 三人は空に向かって吠える竜を鎮めるために、再び同じ場所へ移動を始めた。

 

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