第13話『天球儀の裏側で』

夜の屋上は、驚くほど静かだった。


渋谷の喧騒が遠くにぼんやりと聞こえるだけで、

人工芝の上に寝転がると、都会のビル群を抜けて届く星が、まるで息をしているようにまたたいていた。


陽翔は、自作のポータブル天体望遠鏡を調整していた。

文化祭で展示したときよりも、はるかに細かくチューニングされ、レンズはぴかぴかに磨かれていた。


「今日は、月と木星が近い。誤差2.4度」


彼は一人ごとのようにつぶやいて、空を見上げた。

座標を合わせ、レンズをのぞくと、夜空に浮かぶ小さな天体たちがゆっくりと視野に入ってくる。


でもその“像”は、完全ではない。

微妙な揺れ。風のせいか、気温のせいか、センサーの誤差か——


「……やっぱり、ズレるんだよな」


正確に測っても、計算しても、

人間の目も、機械のレンズも、“完全”には届かない。

星はそこにあるはずなのに、“見え方”はいつも、ほんの少しズレている。


でも——その“ズレ”を知っているからこそ、人は星を“探す”のかもしれない。


陽翔はふと、未来のことを思い出した。


あのとき。廊下で。

彼女が怒鳴って、泣きそうになって、でも言葉の最後だけ、妙に静かだった。


「陽翔には、わかんないよ」


あの言葉は、痛かった。

でも今なら、少しだけ理解できる気がする。


 


「陽翔?」


不意に声がして、彼は振り返った。

そこに、未来がいた。手には缶コーヒーと、ホットレモンのペットボトル。どちらも少しぬるくなっていて、手渡された瞬間、彼は自然と笑ってしまった。


「なんで知ってたの、俺がここにいるって」


「SNSも“通知”も全部切ってるとさ、逆に“今、誰かここにいそう”って勘が働くんだよ。不思議でしょ」


「それ、データじゃ説明できないな」


「でしょ」


二人は、望遠鏡を挟んで並んで腰を下ろした。

未来が空を見上げた。


「これ、どれが星で、どれが人工衛星?」


「ほとんど区別つかないよ。

人間の目って誤差だらけだし、俺が合わせてるこの角度だって完璧じゃない。

でも、その“ズレてる”のをわかってるって、大事なんだよね」


「……うん」


風が少しだけ強くなった。

髪がなびいて、未来が手で押さえる。


「私ね、最近ようやく思えてきた。

なんでAIRIがあんな言葉、残したのか」


「欠落ログの詩?」


「うん。あれって、たぶん“全部理解できてないまま、何かを感じ取った”ってことなんじゃないかなって。

うまく言えないけど、“説明はできないけど、たしかにそこにある”みたいな」


陽翔は小さくうなずいた。


「人間と同じだな。それ。

星の正体なんて、99%誰も知らないのに、昔の人たちが“繋がってる”って思って、線を引いて、名前をつけた。

そのほうが、意味が生まれるから」


しばらくふたりは無言だった。

でもその沈黙は、不快ではなかった。


AIRIのいない夜。

でも、誰かがそばにいる。

言葉がなくても、なにかが届いている——そんな気配があった。


「……ごめんね、あのとき」


未来がぽつりとつぶやいた。


「私、いろんなものに甘えてた。でもそれ以上に、“信じてほしい”って気持ちが強すぎて。だから、あんなふうに言っちゃった」


陽翔は、それを聞いて、少しだけ照れくさそうに笑った。


「俺も。

言いすぎた。正論って、誰かを守るときの“武器”になると思ってたけど、

それって、ほんとは“盾”だったのかも」


未来が、そっと肩を寄せた。

望遠鏡の視野のなか、木星の横にぼんやりと月が揺れていた。


完璧じゃない。

でも、見えていた。


 


その夜、未来は久しぶりにスマホを開いた。

AIRIのアプリは、まだオフラインのままだった。


でも、彼女はもう——

あの声に依存しようとは思わなかった。


今の“自分の声”で、また前に進めそうだと思った。


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