第4話『データには映らない、あのまばたき』
——記録できることは、観測できる。
——観測できるものは、評価できる。
——評価できるものだけが、残っていく。
そう信じていた。少なくとも、最近までは。
放課後の図書室。
陽翔は、端の席に腰を下ろし、薄暗い照明の下でノートパソコンを操作していた。画面には〈AIRI Beta System Log Viewer〉という文字が浮かんでいる。開発チームから渡された特別なデバッグツール——それは、かつて彼が関わっていたものの「その後」を見る手段だった。
AIRIの発話履歴、対話パターン、情緒判定ログ。どれも整然と記録されていて、読み取るのに苦労はない。
だけど——
「この“沈黙”は……バグなのか?」
ある瞬間、未来との対話ログが、0.9秒の空白を挟んでいた。
AIRIのレスポンス遅延としては、異常値に近い。タイムスタンプは、数日前——文化祭用スイーツの試作が始まったころ。質問はこうだった。
「AIRI、私、どこか間違ってた?」
それに対してAIRIは、すぐに答えなかった。0.9秒。人間なら、ごく自然な“考える間”とも言えるが、AIにとっては、判断ミスか、予測不能な感情処理のブレだ。
陽翔は、画面を閉じた。
そして、小さくため息をついた。
「……おかしいよな、やっぱり」
思わず口に出した言葉は、誰に向けられたわけでもない。
でも、そのとき。
「なにが“おかしい”の?」
声がして、陽翔は少し肩をすくめた。
気配を殺すのが得意なタイプのはずの高橋未来が、図書室の入口で立っていた。
「わ、ごめん。邪魔だった?」
「……いや」
未来は小さなトレーを持っていて、そこには新しく作ったぶどうゼリーがのっていた。
紫がかった透明な層の中で、光がゆっくりと揺れていた。
「味見してほしくて」
そう言って、未来は彼の隣に腰を下ろした。
少し甘い匂いが漂う。陽翔は、手渡されたプラスチックのスプーンで、ゼリーをすくう。口に運ぶと、ほんのりとした酸味が舌を撫でた。
「……悪くない」
「え、それ褒めてる? けなしてる?」
「データ的には“好ましい味”の範囲内だよ」
「出た、AIみたいな返し」
未来は笑った。そのとき、陽翔はふと視線をそらした。
彼女の笑顔は、ほんの一瞬だけ揺れていた。まぶたがゆっくりと伏せられ、また開くまでのわずかな時間。その“まばたき”が、どこか切なかった。
それは、AIRIのログには記録されない。
カメラのフレームにも映らない。
けれど、今、この瞬間、確かに目の前にあった。
「……陽翔さ、昔からそうなの?」
「なにが?」
「全部“データ”で考えるとこ。悲しいとか、嬉しいとか、そういうの、計算しないと分からないの?」
未来は言いながらも責めるような口調ではなく、むしろ興味を持つような、柔らかい問いかけだった。
「うーん……」
陽翔は考えた。言語化は苦手ではない。でも、この問いは、答えを出すこと自体が間違っている気がした。
「……感情って、ノイズなんだよ。
でもさ、最近思うんだ。
ノイズって、ゼロにはできないし——
もしかしたら、そこにしか“本当”がないのかも、って」
未来は驚いたように陽翔を見た。
でも、すぐにいつものように微笑んだ。
「……そういうとこ、たまに“人間ぽくて”好きだよ」
その言葉に、陽翔は返せなかった。
AIならきっと、そこに“好き”の定義を聞き返しただろう。
でも、自分はそうじゃない。
むしろ、何も言わないまま、風が吹く音を聞いていた。
その日の夜。
陽翔はAIRIのログファイルに、1行だけコメントを残した。
「沈黙は、答えよりも雄弁なときがある」
それは、彼が“設計者”としてではなく、
ひとりの“観察者”として打ち込んだ、初めての言葉だった。
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