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 冬香が美術に興味を持ったのは小学六年生の頃だった。たまたま、夏休みの宿題である人権ポスターが県の佳作に選ばれ、それに浮かれた彼女の祖母が無理矢理美術館に連れて行ったのが始まりだった。

 正直なところ、そこに絵を出展していたのは名もない画家であった。ゴッホやモネ、ダヴィンチなどほど遠い。

 しばらくしてもう一度その画家の絵を見たくなったが、名前を忘れてしまったので特徴で検索しても、絵は一枚もヒットしなかった。

 そのレベルの知名度の画家だったが、冬香にとっては衝撃的だった。

 画家は風景画を描いていたのだが、その絵からはまるでその場にいるような感覚を受けた。

 今まで見てきた絵は同級生の母親が描いた人権ポスターばかりで、ちゃんとした絵画は教科書の中でしか見たことがなかった。

 そこから冬香はその感動を他の人たちにも伝えたいと思い、中学では美術部に入り親に頼んで画塾を通い始めた。

 それに、冬香は生まれつき体力があるほうではなかったため、何かスポーツができるわけでもなかったし。

 画塾や画材の費用がかなり高額で、高校受験の際に塾に行くことはできず、交通費を浮かすためになんとか家に一番近い高校に入った。

 今でも画塾には通っている。しかし最近は、悩んでいるのだ。

 中学生の頃までは冬香は絵が『上手かった』。たまに賞も取っていたし、クラスの中でも絵が上手い人と言ったら冬香であった。

 しかし高校に入ると世界が広がる。

 画塾も地域ではなく少し離れた都会の画塾に入ると、そこには『すごい』絵を描く人が大勢いた。

 今までの冬香とは比べ物にならないほどの絵を描く人もいた。

 その時、冬香は絵が『上手かった』人になった。

 高校に入って大学のことを調べると、美大に入る厳しさも知った。

 そして何よりも……『上手い』だけではいけないことを知った。上手いだけであれば「へえ、上手」の一言で終わってしまい、次の日には忘れられる。

 それじゃ駄目だ。

 絵を見て感じてもらわなくては。私が、あの日みた絵に感じたように。それが『すごい』絵だ。

 冬香はまだそんな絵を描けたことがない。だから残りの高校生活を絵に懸けることにした。

 長かった髪も切ったし、お小遣いは全て画材にささげた。

 ――いいんだ。元から髪質がいいわけじゃなかったし、物欲があるわけでもなかったから。

 正直、心が折れることだってたくさんある。そういう時のほうがずっと多い。

 それでも持ち前のポジティブさで今までなんとかしてきた。

 ――ここの色、昨日塗ったけどちょっと変えよう。

 冬香は描かれていた絵の上から重ねるように絵の具を塗った。

 アクリル絵の具は上から重ね塗りすると色を塗り替えることができる。黄色を塗っていても、上から青を何回か塗れば青になる。緑にはならない。

 つまりアクリル絵の具は失敗を消せる。

 冬香が水彩画ではなくアクリルを選んでいるのはそういう理由だ。油絵は乾くのが遅いから修正に時間がかかるし、学校で買っている絵の具の多くはアクリルであり、使いやすいという理由もあった。

 描いて、上から塗って、また描いて。

 冬香の放課後はいつもそれを繰り返しだった。

 気が付けば下校時間の六時三十分になろうとしている。絵を描くことに集中しているとうっかり忘れてしまう。

「今日は終わりにしよう……」

 冬香はそうぼやきながら絵の具とキャンパスを片付けた。



 四月十一日。

 下校中。

 春と言っても、夜はまだ寒い。

 冷たい風が吹いていて、お気に入りのひし形のピアスが揺れる。

 冬香の家は駅が近く、画塾はそこから行ける。しかも学校は歩いて行けるので、冬香は自転車を持っておらず徒歩通学である。

 自転車に憧れがあるが、そもそも自転車に乗れるかすら危うい。生まれつき体力がなく、それが原因で冬香は昔から運動音痴である。体育の成績はいつもギリギリの「三」で恐らく出席点か先生のお情けである。体育は寝ようがないから態度だけはよかった。

 距離も歩いて十分程度だが、冬香の体力では少し疲れる。

 それなのになぜか絵を描いている時は不思議と疲れない。集中しすぎて疲れも感じなくなっているのだろうか。

 周りを見ると放課後に友達や彼氏と遊びに行く者が見えるが、別に羨ましいとは思わない。

 冬香は冬香で、自分の人生を謳歌しているつもりだ。

 そのことを再確認するため、もう一度周りを見た。

 そこで冬香はあることに気が付く。

「あれ?」

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