第2話 災禍
「剣はこう。力じゃなくて、体の軸で打つんだ」
夕暮れの庭で、サイリは父に剣の真似事を教わっていた。
細身の枝を握る手はまだ小さく、力も頼りない。
それでも、父は笑って頭を撫でてくれた。
母の声が縁側から響く。「サイリ、ごはんできたよー」
サイリが「もうちょっとだけ!」と返すと、母は「あんまり遅くなると妖精さんが連れてっちゃうよ」と笑った。
それは、どこにでもある小さな村の、平凡な夕暮れだった。
――しかし、最後の夕暮れだった。
その日は月明かりが綺麗な夜だった。
サイリは目を覚ました。
冷たい空気。妙な胸騒ぎ。
窓の外は、黒い霧で覆われていた。
「……う、うああぁぁぁっ!!」
悲鳴――。
家の前から、叫び声が響いた。
「おかあさん……?」
不安を感じながら、サイリはそっと納屋の隙間から覗く。
その視線の先、畑の中に異様な光景が広がっていた。
黒い霧が、地面を這っていた。
その中心で、牛が――村の家畜が、異様な動きをしていた。
目が濁り、泡を吹き、角を振りかざして暴れている。
「サイリ、逃げなさいっ!!」
母の声。
父が農具を持って、その暴れる牛の前に立ちはだかる。
次の瞬間、叫びとともに人が倒れ、何かが砕ける音が響いた。
「おとうさんっ!」
思わず叫びかけた声を、ぐっと噛み殺す。
サイリは足をすくませたまま、立ち尽くしていた。
だが、そこにさらなる悲鳴が重なる。
魔物と化した牛だけではない――
山羊、鶏、犬までが暴れ出し、村の人々が次々と襲われていく。
霧が、黒く、重く、空を覆っていく。
その中から、巨大な影が現れた。
翼を持ち、身体中に黒い鱗を纏い、瘴気をまとう異形の存在。
それは、空をも塗り潰すように降臨した。
「…………」
サイリは、言葉を失った。
その“何か”は、村の中央に降り立ち、獣のように咆哮をあげた。
家々がその声だけで揺れる。
「おい……あれ、龍神様じゃ……ねぇのか……」
「違う、龍神様じゃない……! あれは……」
村人の誰かがそう呟いた瞬間、爆音と共に、建物が吹き飛んだ。
炎が舞い上がる。
そして――魔物となった牛が、サイリの方へと顔を向けた。
「――ッ」
サイリは短い悲鳴をあげた。
ただ、逃げるしかなかった。
足を動かし、森の奥へと駆け出す。
(見つかった――!)
納屋の陰から、逃げるしかなかった。
足を動かし、森の奥へと駆け出す。
森の中。
枝が頬をかすめ、転びそうになる足を必死に持ち上げる。
息が荒れ、涙で前が見えなくなる。
足元を何かが導いている気がした。
昨夜の、あの光――妖精の残した温もり。
その力が、サイリの背中を押してくれているようだった。
いつの間にか、村の外れの崖に出ていた。
サイリは立ち止まり、息を整える。
眼下には、燃える村の光景が広がっていた。
建物は崩れ、家畜が暴れ、人々が逃げ惑う。
その中心に、巨大な黒き影――あの異形がいる。
「!?」
黒い竜が、こちらを見ていた。
否、“竜”と呼ぶには、あまりにも禍々しい。
目は濁り、翼は裂け、全身から黒い霧を撒き散らしている。
その視線が、遠く崖に立つサイリに、まっすぐ向けられていた。
恐怖に体が震える。
だが次の瞬間、その黒き存在が一瞬、首を傾げた。
「……ほう」
声が――直接、脳に響いた。
「懐かしい気配。ふむ……久しく感じていなかったものだな」
ゆっくりと、竜はサイリの前へとゆっくりと降り立った。
その瞬間、突如として、魔物化した狼が吠えながらサイリへと突進した。
(ああ、だめだ――)
目をつぶった、その瞬間。
――ズンッ!
地面が揺れるような衝撃音と共に、魔物が地面に叩きつけられた。
シグレ――黒き竜が、爪をひと振りしただけだった。
サイリは、ただ、立ち尽くしていた。
「死なせるには惜しい。生きよ」
竜が、言った。
「我を討てるだけの者となれ。そうすれば、退屈しのぎにはなるだろう」
そして、竜は空へと舞い上がった。
黒い霧を残して。
その日、サイリの住む村は、失くなった。
そして、サイリだけが生き残った。
ただひとり。
そしてサイリは気を失った。
「ーー神の祝福であり、神の試練でもあるから」
妖精の言葉をふと思い出しながら……
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