二 婚礼の夜


 夜の帳が下りる頃には、黒羽家の広い屋敷もすっかり静まり返っていた。

 婚礼の喧噪はすでに遠き夢の彼方。花嫁は小さく震えながら、独寝には広すぎる寝所に座している。

 賑やかな宴席を離れ、振袖から落ち着いた色無地へと着替えを終えた。髪も梳きなおし、横たわっても邪魔にならないような緩い形に結び直してある。

 そう、これから詩乃は、傍らにあるこの布団に横にならなければならない。

 婚礼を終えたら、あとは初夜――詩乃は伶司と夫婦の契りを結び合うことになるのだ。

(お姉様も初めての夜は、こんな風に震えていたのかしら)

 これから何が起こるのか、知識としては多少知っている。痛いとか、血が出るとか、涙が止まらなくなるだとか。

 ただ、前当主の後妻として嫁ぎ、倍も年の離れた中年オヤジの妻となった姉を思えば、自分はまだマシなのかもしれない。詩乃の夫となる伶司はまだ若く秀麗、目元の涼しげな美青年なのだから。

 もっとも、相手が美青年だろうが恐怖心が癒えるわけではない。詩乃は震える手を膝に置いたまま、今日何度目かのため息を吐いた。

 そのときふいに、襖が開いた。はっと顔を上げた詩乃のもとに長い影が覆いかぶさり、ほの暗い廊下に立つ男と目が合ってしまう。

(来た)

 伶司だ。

 黒羽伶司。

 とうとう、この時が来たのだ。

 彼は冷たい、無感情な瞳でそのまま詩乃を見つめていたが、やがて静かに部屋へと入り後ろ手で襖を閉めた。

 品のある仕草で詩乃の正面に腰を下ろす伶司。私は今から、この人と。そう思うと、詩乃の心臓はまたばくばくと、狂ったように飛び跳ね始める。

 蝋燭の揺れる光がふたりの顔に陰を落とす。永遠とも思える沈黙。頭が痛くなるほどの気まずさ。……そのときだった。

「後ろを向きなさい」

 低く沈んだ声をかけられ、詩乃は弾かれたように顔を上げた。なぜ、と訊ねるより先に、凍りつくような瞳に射抜かれ、詩乃は急いで伶司に背を向けると滑稽なほど背筋を伸ばす。

 意味の分からない沈黙が二人の間を漂う中、突然襟元を後ろに引かれ、ぐっ、と詩乃は息を止めた。

 伶司が右手の人差し指で、着物の襟を後ろへくつろげたのだ。うなじに触れる冷たい風。それよりも冷めた彼の視線に、詩乃は混乱を凌駕する不安に少しだけ泣きそうになる。

「……なるほどな」

 伶司はそう低く呟き、詩乃のうなじを親指でなぞる。

 そこには、淡い蜂模様のような『蜜印』が確かに浮かび上がっていた。

「あの……」

「君の蜜印はここか。ずいぶん色濃く出てしまっているな」

 蜜印――それは、黒羽本家へ嫁ぐ花嫁の証。

 どのような仕組みでこれが現れるかはわからない。黒羽本家の術師としての歴史の中で産まれたのだろうが、今となっては本家の人間すらその全容を知らないのだという。

 ただこれは、黒羽家の分家の女に現れる。印が浮かんだ女は本家当主の嫁となり、多くの子をもうけるのだと、詩乃も聞かされてきた。

 姉の右肩にも同様に、蜜印が浮かんでいた。……この印が浮かんだ時点で、黒羽本家への嫁入りは避けられなかったのだ。

「…………」

 伶司はしばらく無言のままその蜜印を見つめていたが、やがてふっと息をつき、襟をくつろげていた指を離した。

「……確認しただけだ。安心しろ。君に手を出すつもりはない」

「え?」

 詩乃は、とっさに振り返った。聞き間違えたかと思ったからだ。

 だが伶司の顔を見た限り、聞き間違いでも言い間違いでも、冗談というわけでもなさそうだ。伺うように彼を見つめたまま、詩乃はおずおずと口を開く。

「なにか……ご不満でも?」

「勘違いするな」

 伶司は静かに、しかし、確かな意思を込めて言った。

「君は誰のものでもない。……無論、俺のものでもな」

 それはまるで、自分の心に言い聞かせているようにも思えた。

(どういうこと?)

 まるで意味が分からない。どんな理由があるにしろ、新婚夫婦が初夜でしとねを共にしないまま別れるなんて。

 何か言いかけた詩乃を遮るように、伶司はすっと立ち上がる。彼はそのまま隣の部屋の襖を開けると、

「火鉢はそのままでいい。君が寝たら俺が消しておく」

 そう言い残して暗がりへと消え、ぱたんと静かに襖を閉めた。

 残された詩乃は唖然としたまま、伶司の消えた襖を見つめる。部屋の隅にある火鉢の中で、ゆっくりと赤く脈打つ炭。時折、ぱちりと小さく爆ぜる音が、空虚な空間に大きく響いている。

(……手を出すつもりはない、なんて)

 とけゆく緊張とはまったく別の焦りが、詩乃の心をじわじわと不安の色に染めていく。

 もちろん――望んでいたわけではない。だが、それについてはとうの昔に覚悟を決めて嫁いできたつもりだったのだ。

 姉の死の真相をこの手で暴くためならば、彼と夜を共にするくらいきっと耐えられるだろうと――だから、今ほどの伶司の言葉は想定外であり、自分の抱いてきた覚悟を思うと正直拍子抜けですらあった。

 手を出す価値のない女と思われたのか? でも彼は勘違いするなと言った。

 それに今でも隣の部屋からは、かすかな身じろぎの音が聞こえてくる。自分自身の部屋へ戻らず、わざわざ隣にいるということは、たぶん使用人や女中たちには共寝しているように見せたいのだろう。

 それはきっと、初夜に独寝をさせられた花嫁という汚名を詩乃に着せないため……そんな考え方は、あまりにも自分に都合が良すぎるだろうか。

(でも、あの人の言葉は……あまり嫌な感じがしなかった)

 冷たい態度の奥底には、詩乃に対する気遣いにも似た、不器用で、でも少しだけ温かな気持ちが見え隠れしていた気がする。

 火鉢の中の少量の炭火が、また小さく、ぱち、と音を立てる。

 閉じ切った襖の向こうから、小さく息を飲み込む音。あくびでも噛み殺したのだろうか? 別に見えていないのだから、大口をあけてすればいいのに。

 そこまで考え、詩乃はくすっと小さく笑いを堪えた。

 部屋は寒くない。でもそれ以上に、襖の向こうに誰かがいるという安心感が、胸の奥をじんわりと温めていく。

 詩乃は布団に入りながら、そっと火鉢に目を向けた。

 その火は、まるで心の奥にある記憶のように、かすかに、でも確かに優しく灯っていた。





 黒羽家の朝は、妙に湿っていた。

 それは露のせいではない。戸や障子をすり抜けて漂う、古木の湿気とも異なる。

 この屋敷には、人の目に映らぬところで常に何かの香りが滲んでいる。甘く、微かに酸っぱく、そしてなにより──重い。

「あの、伶司様……」

 襖の向こうへ声をかけたが、待っていても返事はなかった。

 詩乃はすっかり冷たくなった火鉢にちらと目をやって、それからほんの少しだけ、隣室への襖を開けてみる。

 人の姿は見えない。伶司はもういないようだ。

(……先にお目覚めになったのね)

 言いようのないもやもやした気持ちを持て余したまま、詩乃はひとり立ち上がり、廊下へと出た。

 廊下の木目は細かく、長い年月のあいだに人の足で磨かれ、すべらかな艶を帯びている。窓硝子の外には、朝靄に煙る庭園がぼんやりと浮かんでいた。

 空気は冷たく澄んでいたが、屋敷の中は息苦しいほどに静まり返っている。

 伶司の姿は、どこにもなかった。

 夜を隔てた隣室。火鉢の揺らめきのなかで、ひとことだけ告げられた「君は誰のものでもない」という言葉。

 あの夜のことが、残滓のように詩乃の胸に残っていた。……でもそこに秘められているのは、いったいどんな感情だろう?

 好きでもない男を相手にしなくてもいいという喜び?

 初夜に独りぼっちで布団をあたためた惨めさ?

 それとも?

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