蜜巣の花嫁 大正夜話浪漫抄

雪静

一 蜜巣の花嫁

 それはもう、春が過ぎつつある五月のことだった。

 晴れ渡る美しい青空に、姉の白無垢はよく映えていた。角隠しに隠れた横顔の中にちらりと見える白い肌。その口元を鮮やかに彩る紅の華麗さに、さすが世界一美しい姉だと誇らしく思ったものだ。

 だからこそ余計に、詩乃の心はつらかった。自慢の姉は今日、嫁ぐ。これからはもう、寒い日の朝に姉の布団に潜り込んで甘えることも、姉によく似た長い髪を時間をかけて梳かしてもらうことも、膝の上で本を読みながら笑いあうこともできなくなる。

 そう思うと、詩乃のまだ幼く小さな心は、ぎゅっと握りつぶされたみたいに痛くなってしまうのだ。

(どうして、お姉様は行ってしまうの……)

 大人たちは皆、笑顔だ。特に父などは、男手一つで育ててきた娘の嫁入りということで、式が始まる前から浴びるようにお酒を飲んでいる。

 まさか俺の娘が本家当主の嫁に選ばれるなんて、と、泣き笑い忙しなく動き回る父。べろんべろんの赤ら顔は、確かに幸せそうに見える。

 でも正直、詩乃にはよくわからなかった。本家当主、つまり姉の結婚相手というのは、紋付き袴を窮屈そうに着たあの中年男である。歳の頃は四十過ぎ、だいたい姉の倍くらい。肉付きが良く汗っかきらしく、まだ夏でもないというのに、ふぅふぅとしきりに汗を拭きながら熱い吐息を吐き散らかしている。

 黒羽の本家は『帝都五家』とも呼ばれる、帝都でも有数の術師の家柄だ。帝都を鎮護する術師に対する国からの支援は手厚く、おかげで黒羽本家は地位も名声も財産も充分にある。現にこの屋敷は分家である詩乃の家の五倍、いや十倍も大きい。文句なしのお金持ちの家といっていいだろう。

 でも。

(いくらお金持ちとはいえ、あんな不細工で太ったオヤジの奥様になるだなんて。……お姉様は本当に、幸せになれるのかしら?)

 むっと唇をとがらせながら、詩乃は睨むように姉の顔を盗み見る。大勢の親族の男たちに囲まれながら、姉は今朝開いたばかりのみずみずしい花のように、目元を柔らかに緩めながら優しい微笑みを浮かべている。

 その目がふいに、こちらを向いた。姉は詩乃の姿に気づくと、ふわりと微笑んでそっと両手を広げてみせた。

「詩乃、おいで」

 行きたかった。

 本当は、何もかもを放り出して、姉の胸の中に飛び込んでわあわあと泣きじゃくりたかった。

 でも、そんなことをしたらまた迷惑をかけてしまう。自分の涙や鼻水で、綺麗な白無垢が汚れてしまう。――結局詩乃はぎゅっと着物の袖を握りしめると、甘えたい気持ちを振り切るように庭の奥へと走っていった。



 走って、走って、走って、走った。

 そうしてふと気がついたとき、詩乃はいつの間にか庭の奥まで辿り着いていた。どうやら気づかないうちにずいぶん遠くまで来ていたらしい。式のざわめきは遥か遠く、姉の姿など露ほども見えない。

 白砂が敷かれた小径の脇には、季節の名残を惜しむように、数本の梢の先に白い花が咲いている。

 やわらかで、儚げな花。まるで花びらそのものが空気より軽いかのように、風にそよいではゆらゆらと静かに身を揺らしている。

 ぐす、と鼻をすすり、詩乃は花の下に座り込んだ。足元には無数の花弁が星空のようにちりばめられている。そのうちひとつを小さな手で取り、何気なく見つめたときだった。

「泣いてるの?」

 驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、見知らぬ男の子だった。

 詩乃より少し年上に見える。黒い羽織に袴を身につけた、きちんとした身なりの少年――けれど、その眼差しには無邪気な好奇心と純粋な心配が見え隠れしている。

「……泣いてない」

 思わず反射的に言い返したが、声はかすかに震えていた。詩乃は恥ずかしさを誤魔化すみたくわざと握りこぶしを作り、やんちゃな子どもがそうするように目元の涙をぐいとぬぐった。

 少年は深い墨色の瞳でじっと詩乃を見つめていたが、やがてなにも言わないまま懐からハンカチを取り出した。そしてそのまま、目を赤くする詩乃の前にそっと差し出す。

「大丈夫だよ」

「……え?」

「お姉様、きっと幸せになるよ。結婚って、二人が幸せになるためにすることだもの」

 そう言って、彼は詩乃の隣に腰を下ろした。

 大人でもなく、子どもでもない、あいまいな年頃の横顔。彼は詩乃と同じ目線で、庭に散る花びらを見つめている。

「……ほんとうに?」

 受け取ったハンカチを指先で揉みながら、ぽつり、と詩乃が言う。

 少年はゆっくりと、しかし力強く頷いた。

「そうだよ。きっとそう。だから寂しくても、お姉様の前で泣いちゃだめだよ」

「うん……」

「幸せになるためにここへ来たのだから、笑って見送ってあげないと。お姉様だって、きっとそのほうが嬉しいよ」

 詩乃、と呼ぶ姉の優しい声が、頭の中に木霊する。

 途端にじわりとせり上がってきた涙をハンカチで押し込めて、詩乃はぐっと唇を噛みしめ、つんとする鼻で息を吐いた。どうだ、と見せつけるように傍らへ目を向ければ、少年は膝で頬杖をつき、にこと柔らかに微笑んでいる。

 その美貌。

 筆に墨をたっぷりつけて描いたような美しい髪。白い肌。長いまつ毛。整った鼻と薄い唇。不相応に落ち着いた顔立ちの中でひとつだけとびきりに目立つ、淡く、優しく微笑む目元の言いようのないあどけなさ。

 そのすべてに瞳が吸い込まれていくような気がして、詩乃は思わず胸を押さえてぱっと少年から目を逸らした。全力で走った後みたいに心臓がどきどき言っている。暑くもなんにもないはずなのに、全身にじわりと汗をかいてきた。

 姉以外の人を綺麗だと思ったのは、これが初めてだったのだ。

「よくできたね」

 少年は立ち上がり、庭の白山吹の枝に手を伸ばした。

 ぱきり。ひと枝をそっと手折ると、ハンカチを握ったままの詩乃の手にそっと握らせる。

「これ、知ってる? 白山吹っていうんだ」

「白山吹……」

「きれいでしょ。小さくて、真っ白で……ほら。君にあげるよ」

 花といっしょに、少年の指がそっと触れた。

 暖かかった。春の日差しよりも、ずっと。

「……あの、名前は……」

 そう訊こうとしたその瞬間、遠くから大人たちの呼ぶ声がした。それにあわせて雅楽の音がたなびくように響いてくる。

 きっと、式が始まったのだ。少年は声の方へと少しだけ顔を上げ、黙ったまま立ち上がる。

 それから詩乃の方を振り返り、はにかむように微笑んだ。

「君が笑ってくれるほうが、俺も嬉しいよ」

 そして彼は振り返らずに、春風とともに去っていった。





 ――今。

 あのとき姉が歩いた道に、十八歳の詩乃は立っている。

 白無垢に角隠し。艶やかに唇を彩る紅。その何もかもが、姉の生き写しのように美しい。

(お姉様――)

 笛の音が鳴る。

 白砂を草履で踏みしめながら、ゆっくり、ゆっくりと、詩乃は歩き出す。

 姉の死の知らせが来たのは、半年前のことだった。

 嫁いでからは手紙の往来すらろくにできなかった姉である。便りがないのは元気の証だと自分に言い聞かせてきていたが、だからこそ余計に、姉の死は青天の霹靂となって詩乃を貫いた。

 死因は? 事故死。

 どんな事故? 大したものではない。

 棺を開けて遺体に会わせてくれ。 それはできない。

 なぜできないのか? 本家のしきたりだからだ。

 矢継ぎ早に問い詰める詩乃の怒りと悲しみの言葉を、本家の使いだという男は飄々と流すばかりだった。その姿といったらもう、言葉も態度も何もかも不誠実で、逆に詩乃を煽りに来たのではないかと勘繰ったほどである。

 いずれにしろ詩乃の疑惑は蔑ろにされたまま、葬儀は黒羽家を主体としてつつがなく行われた。同時に事故死したのだという、当主の葬儀も一緒だった。

 黒羽本家は、当主が前妻との間にもうけたという、若干二十四歳の青年を当主に据えて再出発する。

 そして今度は、詩乃が選ばれた。

 黒羽本家当主の妻という、姉とまったく同じ道を、今度は詩乃自身が歩くことになったのだ。

(ここが、お姉様の暮らしていた屋敷……)

 目の前に、厳かに佇む黒羽家の正門が見えてくる。

 その先に広がるのは、記憶にある屋敷――しかし、どこか異質な気配をまとっていた。

 術を司る古き一族の、重くかび臭い空気だろうか。幼い頃は持ち合わせていなかった冷静な観察眼が、この屋敷の建物までをも不気味なものに見せているのかもしれない。

 ふと視線を感じて顔を上げると、玄関の奥に、ひとりの青年が立っていた。

 黒い羽織、控えめな立ち姿、そして何より、静かな眼差し――それは、どこかで見たような、懐かしい気配をまとっている。

 でも詩乃はすぐには思い出せなかった。ただ、胸の奥が、ひどくざわつく。

 整った面立ちに長いまつ毛、緩く結ばれた薄い唇。羽織に大きく描かれた金色の蜂の家紋は、まさしく彼が黒羽本家の人間であることを示している。

 でも、彼自身の姿はむしろ、蜂というより鴉のようだ。長く豊かな黒髪が風に弄ばれるのを、特におさえもせずされるがまま、彼はその鋭い瞳で詩乃だけをまっすぐに見つめている。

「花嫁様の到着にございます」

 使用人の声が響く。

 それと同時に、男が軽く姿勢を正すと、使用人はひどくかしこまった仕草で「当主様」と頭を下げた。

(あの人が、黒羽くろは伶司れいじ

 詩乃の夫となる男。黒羽本家の新当主。

 そしておそらく、姉の死について誰よりも深く知っているはずの人。

(……お姉様。待っていてください)

 これはただの政略結婚ではない。

 姉の死の真相を知るための、唯一の道だ。

 だからこそ詩乃は、この婚姻を二つ返事で引き受けたのだ。そうでなければ、大好きな姉が死んで一年も経たないうちに、姉の最期を誤魔化すような不審な家になど嫁ぐものか! 

(私は必ず、見つけます。お姉様が幸せだったのか。お姉様がなぜ亡くなったのか。……あの日焼かれた棺の中に、本当にお姉様が眠っていたのか)

 白無垢の袖の中で、小さな手がぎゅっと結ばれる。

 固い決意を瞳に滲ませ、門をくぐった花嫁を迎えるように、白山吹の小さな花弁がふわりと空へ舞い上がった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る