5話目 「名無しの観測者」

 沈黙の中で、音が生まれた。


 ──カチ、カチ。

 ブラウン管モニターの奥で、リレーのような音が静かに響いている。

 先ほどまでは完全に沈黙していた封匣端末が、再び動き出していた。


 「……勝手に、動いた?」


 レトが声を潜める。


 モニターが明滅する。色の抜けた緑色の画面に、白い文字が滲むように浮かんだ。


---


> Minel:

> 「再生ログ No.013-末端観測者名無し──接続状態:曖昧」


---


 「名無し……?」


 レトがつぶやいた瞬間、室内の空気が微かに震えた。


 ──聞こえる。


 耳ではない。機械を通じた声でもない。

 だが確かに、“意味”だけが直接脳に流れ込んでくる。


 『……記録は、まだ……続いていたか』


 それは、声というよりも記憶の断片のようだった。

 言葉にする必要すらなく、ただ存在そのものが問いかけてくるような感覚。


 「……あなたが、観測者名無しか?」


 輝が問うと、返答のように文字が現れる。


---


> [記録者名無し]

> 私は記録の果てを見た者。

> この都市がまだ、“観測都市”だった頃の最後の接続者。


---


 「観測都市……?」


 『この街には、記録が集まる。音、映像、データ、人の記憶。

 誰もが“好き”を理由に、断片を保存し、共有し、再生した。

 それこそが、この都市が持つ力だった』


 輝は静かに頷く。秋葉原という街は、確かに“記録”によって成立していた。


 だが──


 『やがて、それらは消えていった。

 ログは流れ、メディアは朽ち、ハードは壊れる。

 誰かが“覚えていない”というだけで、記録は“なかった”ことにされる』


 『……だから私は、最後の記録をここに埋めた。

 思い出されることもなく、保存もされず、それでも“観測されたこと”を残すために』


 レトがわずかに肩をすくめた。


 「じゃあ……あなたは、もう……」


 『既に肉体はない。観測だけが、かろうじて残っている。

 名前も持たず、発信者IDも削除され、“名無し”としてログだけが残った』


 輝は思わず息をのむ。

 それはまるで、かつての自分の末路のようだった。


---


> [名無し]

> ……君は、“フェル”だな?


---


 「……!」


 レトが振り向く。


 「その名前……あなただけ、知ってるの?」


 輝は頷いた。


 「フェルは、私のかつての名。異世界で、記録と知識を保つ者の称号だった。

 世界が崩壊する中で、私が最後に残したのは、記録だけだった。

 だから……私も、“名無し”になるところだった」


 『だが君は、残ろうとした。新たな世界で、再び記録を繋ごうとした。

 その行為自体が、次の観測者の証だ』


---


> [名無し]

> だが覚えておけ。

> 記録は、“残す”だけでは意味を成さない。

> 必ず“届く先”が必要だ。

> 観測とは、他者と繋ぐ意志だ。


---


 レトが、ふと輝を見る。


 「あなたに……届いてる。少なくとも、いま」


 輝は静かに、目を閉じた。


 “記録者”という言葉が、初めて“繋ぐ者”という意味を持ち始めていた。


---


> [名無し]

> 私のログは、ここで終了する。

> これより先は、君が記録せよ。

> この都市が、忘却に呑まれぬように。


---


 CRTの画面が、ゆっくりとフェードアウトする。

 最後の瞬間、光が画面の中心に集まり、一点の光として瞬き──そして消えた。


 “名無し”は、消えた。

 だがその声は、確かに残った。


 「……彼の記録、確かに受け取った」


 輝は、改めて立ち上がる。


 この街に残る“断片の観測者”として、自らもまたログを刻んでいく決意を胸に──

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