第8話 ゴブリン

 ゴブリン。薄緑色の、背が低い人型の魔物だ。人間の子どもと変わらない程度の力しかなく、賢くもない。

 群れの数は少なければ3から5匹。多い時は10匹以上になることも珍しくはないが、そういう時はたいてい、ホブゴブリンのような上位種に率いられている。この階層なら、前者の群れだろう。


 壁に顔を近づけ、ゆっくりと曲がり角の先を覗き見る。

 当然のように暗くなっていて、見通しは良くない。けれど、かすかに動く物影がある。3体ほどだろうか。輪郭からして、ゴブリンに間違いないはず。

 それがここから5mとない場所で、階段の向こうを覗き込んでいる。


「数は3。ゴブリンだ。階段のほうを見てる。たぶん、奇襲できる」


 振り返り、ニフェルの目を見ながら伝えれば、ニフェルは静かに頷いた。魔導ランタンの明かりを落とし、ワンドを強く握りしめる。準備は万端だ、と強い視線で訴えてきたので、俺は再度ゴブリンの様子を伺い、タイミングを計る。


「様子を見て飛び出す。そしたらすぐ、一番いいバフをくれ」

「え、えっと、どのバフがいいです?」

「なんでもいい。一番自信があるやつをくれ。あとは俺で何とかする」

「で、でも、自分にかかったバフの内容が分からないままだと――」

「っ、今だ!」


 ちょうど3体すべてが、完全にこちらに背を向けた。

 俺は隙を見逃さずに駆けだす。


 最初の1歩は音を殺し、続く2歩、3歩目では遠慮をしない。

 3体の内、右端にいたゴブリンがこちらを振り返るころには、そいつを間合いに入れていた。


「ニフェル!」

防御力超上昇マキシマム・ガード・アップ!」

「……ん? ガード?」


 気にしている時間はなかった。

 剣を振り上げる。振り返ったゴブリンは目を見開き、慌てて小さな両手を向けてくるも、間に合わない。振り下ろした一線がゴブリンの頭上をとらえ、縦に切り裂く。体内からわずかに黒く色づいた霧のようなものが広がった直後、ゴブリンの体すべてがその霧に変わり、消えてなくなる。

 そして、代わりとばかりに指でつまめるような大きさの、クリスタルのようなものが地面に落ち、カラン、と軽い音を立てた。


 ダンジョン内に生息する魔物は、実際には肉体を持たない。

 その体は魔力で構成されており、たいていの魔物は倒されると魔力に戻る。そして、身体を維持する機能を持つ魔核だけを残し完全に消え去るのだ。

 一部の上位種は魔力が高濃度で凝縮されるため死体として残ることもあるのだが、それも時間たつと少しずつ魔力に戻っていく。そのため、主に魔物の素材として取引されているのは、この魔核。魔力を定着させる役割のあるこの魔核は、魔導ランタンのような魔道具にとって必須の代物だ。


 と言っても、ゴブリンの魔核なんてありふれたものは、大した値段じゃ取引されていない。回収よりも、まずは倒すことが先決だ。


「クロトさん!」


 ニフェルが声を上げる。

 

 剣先を見つめていた視線をあげれば、2体のゴブリンがこちらに向かって棍棒を振り下ろすところだった。

 思っていたよりも反応が早い。いや、俺が遅いのか?

 1体倒してから一息つく隙すらないとは。前衛って言うのは、俺が思っているよりも難しい職業なのかもしれない。


 木製の棍棒が目の前に迫る。しかしそれも子どもの攻撃。勢いも素早さもない大ぶりの一撃は、1歩下がるだけで余裕をもってよけられる。宙を切り、音を立てた棍棒が向かう先は地面。

 岩肌を叩き、ちょうど木を叩くのと似たような軽い音が鳴ると同時、ゴブリンの体は反動でのけぞった。


「食らえ!」


 隙を見せつけられ、思わず声が出る。

 踏み込むと同時に剣を突き出し、ゴブリンの胸部を突き刺す。深く入り込んだ剣は貫通し、ゴブリンを霧へと変えた。


 そこまでは良かった。だが、俺はあまりに盲目だった。ゴブリンは今ので最後じゃない。あと1匹、残っているのだ。

 

 一息ついている暇はなかった。振り返り、先ほどいたはずの場所に目を向けると、目の鼻の先に棍棒が見えた。見えた、というよりは、察した、のほうが正しい。暗がりの中ではその輪郭をとらえることしか出来ず、目の前が覆われたことで真っ暗になっていた。

 何も考えられなかった。冷静でいなければならないはずの、戦場を見渡さなければならないはずの俺が、視界を奪われただけで焦ってしまった。それとも、奪われたからこそ、なのだろうか。

 とにかく、俺は避けることが出来なかった。ただ、殴られるという確信とともに目を閉じ、衝撃に備えることしか出来ない。備えたところで、何もないというのに。


 ほどなくして、額に何かが触れる感触が伝わる。

 ゴブリンとはいえ使っているのは棍棒。十二分に鈍器としての威力を発揮するし、食らったのは額だ。無傷とはいかないだろう。この程度で死ぬとも思えないが、きっと冒険者は諦めなければならない。

 まさか子どものころからの夢が、ゴブリン1匹のために途絶えるだなんて。かつての俺が聞いたら、泣きわめいてしまうことだろう。


「……ん?」


 そこまで考えて、気づく。

 はて、こんなに思考時間の猶予があっただろうか。先ほど棍棒が触れた感触があったというのに、痛みが来るまで遅すぎないか? それとも、俺はすでに倒れていて、これは走馬灯、ってやつなのだろうか。

 にしては、まだダンジョン特有の土の香りとかひんやりとした空気を、感じるのだが。


 俺は目を開こうとする。すると、問題なく開くことが出来た。視界に映るのはやはり棍棒だが、何かがおかしい。

 棍棒は、俺の額に触れたまま、動かないでいた。

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