■第三章:事件と優しさ ~跳ねたタレと控え室~
それは、ほんの一滴の悲劇だった。
「よーし、次は厚切り牛タン! 網の中央で焼いて、端に移して……」
まなはお手製の焼き順マトリクスに従って肉を配置し、得意げに頬を膨らませていた。その瞬間――
じゅっ、と音がして、ぱしゃ。
「あっ」
タレが弾け、跳ねた。
ピンクのジャンパースカートの胸元、苺とリボンの刺繍のちょうど間に、小さな茶色のしみ。
「……」
まなの顔が一瞬で凍った。
笑っていた瞳が揺らぎ、口元が引きつる。フリルの上で、タレがゆっくりと染みていく。まなの箸が、ぴたりと止まった。
それを見ていた蘭は、即座に立ち上がった。
「……控え室がございます。染み抜きのスプレーもございますわ。ご案内いたします」
「えっ、あ、だいじょぶ、たぶん……」
「いいえ。お召し物は、ロリィタの魂です」
「た、たましい……」
蘭はためらうまなにそっと手を差し出した。まなは言葉を失ったまま、促されるように席を離れた。
⸻
控え室は、会場奥の小さなフィッティングルームだった。シャンデリア風の照明が揺れ、壁には鏡とチェア。ロリィタ服が数着、備え付けのラックにかかっている。
蘭は自分のバッグから、丁寧に畳まれた一式を取り出した。
「わ、なんか……ちゃんとしてる……」
「予備として常に一着、持ち歩いておりますの。着替えをどうぞ」
「ま、まって、キャミとかドロワーズとか、全部?」
「すべて、です」
それは儀式のようだった。
まなのリボンを解き、ブラウスのボタンをひとつずつ外す。キャミソールを脱がせ、白地に薄紫の小花柄の新しい一枚を、両肩から滑らせるように着せる。
下着が露わになることなく、手のひらでシルエットを整えながら。
まなの頬は、湯気のように紅くなっていた。
「こ、これが……お嬢の嗜み……?」
「下着のラインを崩さぬように。ドロワーズは、ウエストの位置を正確に合わせます」
丁寧にリボンを結び、スカートをふわりと広げて被せる。白地にスミレ柄のクラシカルなジャンスカが、まなをやさしく包み込んだ。
そして最後に、ボンネット。
蘭が後ろからそっと結んだとき、まなは鏡の中の自分をじっと見つめていた。
「……なんか、プリンセスみたい」
「いえ、ロリィタです」
「……そっか」
ふたりの間に、ふわりと香る洗濯石けんと布の匂い。
焼肉の匂いとは、まるで別のやさしい世界。
まなは、蘭のほうをそっと見上げた。
「ありがとう。……ほんとに、ありがとう」
蘭は軽く笑って、手を差し出した。
「ご一緒に、席へ戻りましょう」
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