仕事をさぼる副業男に鉄槌を

広川朔二

仕事をさぼる副業男に鉄槌を

午後八時半。オフィスに残っているのは、俺と上司の山崎さん、それから田辺の片付けをしている派遣社員の西川さんだけだった。


「すまん、これ、明日の朝イチでクライアントに送らなきゃなんだ。頼めるか?」


山崎さんの声には申し訳なさがにじんでいたが、もうそれにも慣れた。俺は小さくうなずいて、モニターの前に座り直した。


この仕事も、本来なら田辺の担当だった。だが彼は、いつも巧妙なタイミングで「家庭の事情」を持ち出しては、仕事を押し付けてくる。今日も「母の具合が悪い」と言い残して、定時きっかりに席を立った。メールの締めの言葉は決まって「よろしくお願いします!」だった。


──何がよろしく、だ。


文句のひとつも言いたいが、介護という言葉には誰も逆らえない。上司も同僚も、「大変だな」と同情的だ。だがその一方で、彼が新しいスマートウォッチを着けていたり、ブランド物の財布に新調していたりするのを、俺は見逃していない。昼休みにこっそり見ていた通販サイトも、どう考えても介護にかこつけているようには思えなかった。


「田辺さんって、お母様の介護で早退してるのに、最近いつも元気そうですよね」


先日、派遣の西川さんがぽろっと漏らした言葉に、俺は心の中で何度もうなずいた。けれど、それ以上のことは言えなかった。言ったところで「人の家庭事情に口出すな」と返されるのがオチだ。


俺のタスクは、ここ最近倍増している。昼休みもまともに取れず、退勤時間は定時からいつも三時間以上過ぎてから。帰宅してシャワーを浴び、倒れこむようにベッドに入って、翌朝はまた満員電車に押し込まれる。そんな日々が、もう半年も続いていた。


「なあ、金田、今週末飲みに行かないか? 久々にさ」


大学時代からの友人、三好からメッセージアプリで連絡が来たのは、そんなある日だった。誘われた瞬間、心がほんの少し浮き立った。


──たまには、いいか。


だがその日も、田辺が「急に母が倒れた」と言って定時で消えた。そして俺はまた、山のようなタスクを背負って夜を迎えた。


「悪い、ちょっと今日も無理かも」


友人への返信が、指先から絞り出すように送られる。スマホの画面を見つめながら、ため息だけが深くなる。


その翌週。田辺は、やけに機嫌が良かった。


「いやー週末ははバタバタだったわー。母親、病院連れてって終わったと思ったら、今度はオヤジが……」


言い訳を長々と語る彼の手首には、新しい高級腕時計が光っていた。介護というには、あまりに元気そうな顔と姿。俺の胸の中で、モヤモヤは確実に怒りへと形を変えつつあった。





久々に外の空気を吸った気がした。


土曜の夕方。三好と約束していた居酒屋で、ようやく俺は重い日常から一歩だけ逃げ出せた。薄暗い木目調の店内は懐かしく、学生時代に戻ったような安心感があった。


「マジで会えてよかったよ。お前、ずっと断ってたから、ちょっと心配してたんだぜ?」


三好がビールジョッキを掲げた。俺も軽く笑って応じる。


「ごめん、ずっとバタついててさ……」


平日の残業だけでは追い付かず、自宅で仕事をする週末が続いていた。断り続けていた俺を、それでも誘い続けてくれた三好。彼の持つグラスがカチンと軽く鳴った瞬間、ふいに隣の席から話し声が聞こえた。


「いやー、今月はマジでうまく回ったわ。もうちょっとで五十万超えるかもな」


妙に聞き覚えのある声。間の抜けた笑い方に、思わず手を止めた。


「え、どうした?」


「いや……なんか、隣の声がさ……」


気にしないように努めたが、耳が勝手にそっちを拾ってしまう。


「副業って言っても、あれだろ? アニメとかエロ動画とか勝手に転載してんの、あれってアウトじゃね?」


「ははっ、だからサーバー海外だって言ってんじゃん。日本の法律届かねぇし。しかもバレないように偽名でやってんの。宣伝用のSNSアカも分けてっからさ」


背筋が一気に冷えた。


その話し方、その口調。俺の記憶に焼き付いている、あの男の声だった。


「会社バレたらマズくね?」


「だーかーら、バレねぇって。俺がどんだけうまく立ち回ってるか知らねぇだろ? バカな同僚に仕事押し付けて、オレは定時で帰ってサイト更新よ。上司も“介護”とか言ってりゃ何も言えねぇし」


──バカな同僚。


乾いた笑いが聞こえたその瞬間、俺の中で何かがプツンと切れた。


目の前の三好の顔がぼやける。グラスの中の炭酸が無音になったような気がした。


「……ちょっと、トイレ行ってくる」


席を立ち、通路の角を曲がる。衝立の向こう、確信はすでにあった。


──田辺。


いつも目にするスーツ姿とは違い、キャップをかぶり眼鏡をかけているが、あの癖のある笑い声と姿勢で間違いようがなかった。俺に気が付かず、向かいの友人であろう人物と大声で話している。


トイレの鏡の前で深く息を吐いた。拳を握りしめたが、殴りに行くほど馬鹿じゃない。ここで何かしても、こっちが損をするだけだ。


席に戻ると、三好が俺の表情を見て眉をひそめた。


「大丈夫か?」


「……ああ。ちょっと酔いが回っただけ」


それ以上は何も言わなかった。ただ、グラスの水滴がテーブルにじわじわと広がっていくのを、じっと見つめていた。


その夜、帰りの電車の中で俺はスマホを握りしめながら思った。


──黙っているつもりはない。


週明け。俺は何食わぬ顔で出社した。田辺は相変わらず定時帰りを装い、無責任に仕事を投げてくる。


「金田くん、これ、お願いねー。今日ちょっと実家でさ」


その声を背に受けながら、俺は心の中で静かに呟いた。


──そっちがその気なら、俺もやらせてもらうよ。


昼休み、俺は数人の信頼できる同僚に声をかけた。


「週末、偶然こんな話を聞いてさ……」


話すうちに、皆の顔色が変わっていった。


「……やっぱり。最近の田辺さん、どうも変だと思ってたんだよ」


「介護って言ってたのに、駅前の高級焼肉屋にいたって話もあるよ」


「私もあの人のSNS見つけたんだけど、介護してるような感じじゃなかったから怪しいと思っていたんです。ほらこれ……」


噂は一気に加速した。少しずつ、確実に。田辺の築いた“仮面”に、最初のヒビが入った瞬間だった。


社内の空気が、わずかに変わってきたのを感じたのは、それから数日後だった。


「ねえ、あれ聞いた? 田辺さんの話……」


昼休みの給湯室。耳を澄まさずとも、そういった噂が自然と流れてくる。俺が仕掛けた火種は、今やいくつもの手を通じて、部署のあちこちに飛び火していた。


「副業ってさ……しかも違法な転載サイト? 本当だったらやばいよな」


「なんかやけに高級ブランド品を身に着けていると思ったら」


本人はまだ気づいていない。自分がじわじわと孤立し始めていることに。


俺は、田辺が副業で運営しているというサイトを特定するため、複数の匿名掲示板や海賊版サイトの利用者レビューを丹念に追った。三好にも相談し、ITに詳しい彼の力を借りて、アフィリエイトリンクの経由先や、SNSの広告アカウントまで調査を進めた。


そしてついに、それらの情報が一つに繋がった。


──「アニメ・エロ動画まとめ」違法転載サイト。運営名義は偽名だったが、宣伝に使用されていたSNSアカウントの投稿写真の背景に、うっかり自宅のポスターが映り込んでいた。それが、田辺のSNSにかつてアップされた写真と一致した。


決定的だった。


俺はスクリーンショットをいくつも取り、時系列で並べ、簡単なレポートにまとめた。社内コンプライアンス部門宛に匿名で送信する準備も整えた。


だが、急ぐ必要はなかった。なぜなら、事態は別の方向からも動き始めていた。


その翌日、同じ部署の女性社員・大久保が、部長に向かって声を上げた。


「私、田辺さんから、仕事を“介護があるからやっておいてくれ”って言われてました。でも、私が帰るとき、駅前のカフェで誰かと打ち合わせしてたの、見ました」


それをきっかけに、他の社員たちも次々と証言を重ね始めた。田辺がいかに業務を他人に押し付け、早退・外出を“介護”で正当化していたか。


ついには、コンプライアンス担当からの事情聴取が始まった。田辺の態度は、最初こそ余裕があったが、日に日に焦りが顔に出るようになる。


「あの……ちょっと最近、周りが変に冷たい気がするんだけど」


本人はまだ“誤解”で済むと信じている。だが、俺たちは確実な証拠を握っていた。


そして、ついにSNSの“副業宣伝アカウント”が、漫画出版社の公式アカウントにリポストされるかたちで拡散された。


《著作権侵害を確認。現在、法的手続きを進めています》


その投稿は瞬く間に炎上し、ネットにあふれる顔のない探偵の手によって田辺が運営者であるという噂がネットの海に広がった。


「やばい、何これ……誰かが俺のこと売ったのか!?」


出社した田辺は顔面蒼白。スマホを握りしめ、誰に問いかけるでもなく呟いていた。


もう誰も、彼に目を合わせない。今や田辺は“社内で一番触れてはいけない人間”になっていた。


——田辺が社内から姿を消したのは、突然だった。


いつものように、無責任な調子で業務を押し付け、「今日も介護なんでー」と口にした翌日のことだった。


朝、出勤すると田辺のデスクには何も置かれていなかった。机上の書類も、私物も、跡形もなく消えていた。まるで最初から彼がここにいなかったかのように。


それでも、俺たちは知っていた。これは、正式な処分によるものだと。


前日、社内通達が一斉に出された。「社員の副業による重大な就業規則違反および著作権法違反に関し、当該職員の懲戒解雇を決定した」と簡素な文章。名前こそ伏せられていたが、誰もがその人物が田辺であることを悟っていた。


さらにその日の午後には、いくつかのネットニュースに小さな記事が出た。


「違法転載サイトの運営者、都内で著作権法違反の疑いにより逮捕」


──もう隠す術はなかった。


「まぁ……当然の結果、だよな」


オフィスで誰かが呟いた。誰も、同情の言葉は口にしなかった。彼がしてきたことを思えば、それは当然だった。


唯一、ざわついていたのは、社内の“空気”だった。あれほど声高に介護を盾にしていた人間が、裏では金と快楽のために違法な副業に耽っていた。そのギャップが、社内の倫理感を深く揺さぶったのだ。


それでも、俺たちの業務は回っていく。


田辺のいないオフィスは、意外なほど静かで、清々しかった。田辺の抜けた穴は派遣社員を増やしてで埋めることになった。何せ今まで皆が手分けしてやっていた業務なのだ、新しい派遣社員に教えるのもサポートするのも苦労はなかった。


久しぶりに、定時で会社を出た。


黄昏に染まる街を歩く。空気が少し冷たくて、心地よかった。俺はようやく週末の予定をキャンセルせずに済んだ。


「よぉ、やっと落ち着いたか?」


三好が笑って缶ビールを差し出してきた。ベンチに腰かけ、乾杯する。


「なんとかね。長かったわ、マジで」


「まさかあの逮捕されたやつがお前の会社の同僚なんてな。それ関係で今まで大変だったのか?」


「うーん、ま、そんな感じ。でもさ、因果応報ってやつかな」


缶の中で炭酸が弾ける音が、心地よい音に聞こえた。復讐心というよりも、正しさを通しただけだった。誰かのためではない、自分自身のために。


「なあ、次の休み、どっか行こうぜ。温泉とかさ。今度こそ、キャンセルすんなよ?」


「はは……分かってるって」


見上げた空には、どこか吹っ切れたような澄んだ青が残っていた。


たった一人の悪意が取り除かれただけで、世界はこんなにも静かになる。


──今度こそ、日常が戻ってくる。今度こそ、本当に。





数日後、社内SNSで回覧されたメッセージには、こう記されていた。


「組織の信頼を著しく損なう行為は、たとえ匿名であっても明らかになるものです。社員一人ひとりの誠実な行動が、会社全体の信用を守るのです」


そして、回覧の下には小さく──

「副業・兼業に関するルールの再確認をお願いします」


とあった。


誰もがうなずいた。

誰もが、あの“田辺”という名前を思い浮かべながら。

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