第5章:政策 ― 敗者の記憶を制度に織り直す ―
退院して三週間、梶原修造は初めて自宅のキッチンに立っていた。
小鍋に水、干し椎茸、煮干し、山芋のすりおろし、鹿肉の薄切り。
塩ひとつまみと、生姜。
湯気が立ち昇り、身体が勝手に息を深くした。
(これが、“身体が求めている食事”だ)
胃が、内臓が、どこか“ほっとした顔”をしていた。
だが、これをただ「うまかった」と済ませるわけにはいかない。
なぜ自分の身体が、あの白粥に拒絶を示し、山と獣と発酵の記憶にだけ応えたのか。
その謎を、彼は政治家として、制度として、言葉にする責任があると感じていた。
机に戻り、ノートPCを開く。
検索履歴は異様な風景を作っていた。
「弥生時代 稲作強制」
「脚気 江戸 白米」
「肉食禁止令 仏教 徳治」
「SGLT2 正常血糖ケトアシドーシス 和食」
「糖尿病民族差 日本 インスリン分泌」
彼は今、制度の内側から制度を告発する準備を始めていた。
すべての始まりは、稲だった。
列島がまだ縄文の身体で満ちていた頃、
人々は山芋と海藻、獣の内臓と魚の発酵を喰っていた。
身体は「血糖を急上昇させない」ように進化していた。
だが弥生期、稲が渡来した。
文明、分配、徴税、軍事――
稲はすべてを可能にした。そして、すべてを支配した。
奈良の律令国家は、稲を「徳の象徴」にした。
粟・稗は“下の食”。白米は“上の食”。
その価値観は千年のあいだに骨に染み、
やがて江戸の武士たちは「白米で脚気になり、粥で回復する」構造にすら気づかず死んでいった。
「白米をやめよ」
そう進言した町医者は切腹させられた――という説もある。
さらにそこへ重ねられたのが、肉食の禁制だった。
天武天皇4年(675年)、「殺生禁断令」――
牛、馬、猿、鶏、犬の肉を食うべからず。
以後、肉を喰う者は“穢れ”とされた。
それは宗教というより、徳治思想による制度設計だった。
牛は力の象徴。
鹿は山のタンパク源。
鶏は鉄とビタミンと脂肪をもたらす。
それらを“食ってはいけない”とされた時代が、千年続いた。
制度のために肉を絶ち、米を神とした身体。
それが、現在の「白米に弱く、糖に脆い日本人の身体」を作ったのだ。
明治。
富国強兵の名のもとに、白米は兵糧として制度化された。
「軍人の食」は白米と塩鮭。脚気で倒れた兵士は、訓練不足とされた。
制度は、身体の拒否反応を、精神の問題にすり替えた。
そして今――
この国は“和食は健康”という言説を制度化し、
白米と味噌汁を中心とする食卓を「世界に誇る日本の食文化」として輸出しようとしている。
だがその“標準化された健康食”が、多くの身体の声を無視してきたことを、
誰が真正面から語るだろうか?
梶原は机の上の草案に目を落とした。
身体的文化多様性保護法案(案)
― 稲作文明によって一元化された身体文化を是正し、
伝統的非稲作系食文化の再評価と制度的包摂を図る。
― 「身体の制度OS」を再設計するため、
移民・在来少数食文化・遺伝的食適応性を活用した
実験特区を創設する。
政策秘書の村井が苦い顔で言う。
「これ……つまり、
**“白米に弱い身体を、制度の外から組み替える”**って話ですよね?
炎上しますよ。“民族的身体改造論”とか言われかねない」
梶原は言う。
「炎上でいい。“制度の正しさ”を信じすぎた結果、
この国の身体は静かに壊れてきた。
俺は、それを黙って見てた側の人間だ」
かつて敗者だった蝦夷、物部、縄文の身体が、
現代では小さな食卓の記憶として生き残っている。
その“敗者の記憶”を制度に織り込むときが来た。
それは制度批判ではない。制度の更新だ。
彼は草案の冒頭に一行書き加えた。
「制度は、身体を最適化するために作られた。
だが最適化とは、いつも“余剰の排除”から始まる。」
その夜、彼は鍋を温めた。
鹿肉。山芋。干し椎茸と昆布の出汁。
塩。火。息。
スープを啜る。
胃が、言葉にならない安堵で満たされる。
これは、“制度の外”で生き残った身体の知だ。
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