第3章:辺境の食堂

(制度の外に、まだ何かが残っている)

その感覚が、腹の底から立ち上がったとき、梶原修造は眠っていた。

ICUのモニターは微かに音を刻み、人工呼吸の機械が無機質なリズムを刻んでいる。

しかし彼の意識は、すでに現代を離れていた。


焚き火のにおいがした。

獣の脂と、海藻の香りと、発酵した何かの酸味が鼻をくすぐった。

目を開けると、囲炉裏のある小屋の中だった。

煤けた木の梁。草で編まれた壁。外は風の音だけが響いている。

まるで、時代のはざまにあるような場所。

(ここは……どこだ)

「ようこそ、“辺境の食堂”へ」

静かに声がした。

振り返ると、三人の人影が座っていた。


一人は、鹿の革を纏った男。頬に刺青。背に弓。

眼光が鋭く、だが瞳は静かだった。

「蝦夷(えみし)の者だ。山を渡り、鹿を追い、冬を越える」

一人は、白い装束を纏い、目を閉じたまま座る女。

呼吸が異様に深く、体のまわりに空気が澱むようだった。

「物部(もののべ)の祈り人。言葉よりも、息で世界を整える」

一人は、半裸の老人。髪は灰色で、胸毛まで海藻のにおいが染みついている。

「縄文の流れを汲む者。山芋と貝と魚の内臓で、風邪も戦も越えてきた」


梶原は、何も言えなかった。

身体が……反応していた。

懐かしい。というより、「知っている」。

知らないはずの味のにおいが、胃袋の奥に残っていた。

蝦夷の男が、鍋を差し出した。

鹿の骨と内臓を煮込んだスープ。

根菜、山椒、干し海藻。わずかに発酵の酸味が香る。

「喰え。胃が覚えてる」

その言葉に、箸を伸ばす。口に含む。

――何かが、溶けた。

舌でも、喉でもない。内臓が“ありがとう”と言った。

まるで、長年の傷口に沁み込む湯のように、じわりと身体が安堵していく。


物部の祈り人が、発酵させた魚の味噌を湯に溶いて差し出す。

「これは“火を使わぬ神饌”だ。

 喰えば、眠りの奥に届くぞ」

次に、縄文の老人が、干した魚と野草を叩いて混ぜた団子を渡す。

「米なんていらねぇ。これで海は渡れた。冬は越えた」

蝦夷が笑う。

「白米? あれは“戦に負けた味”だ。

 喰って倒れた者は見たが、あれで走れた奴は、ひとりもいねぇ」


梶原は気づいた。

この者たちは、「敗者」だった。

制度に屈せず、身体を差し出さず、歴史から消された者たち。

だが今、制度の中で壊れていった彼の身体は、彼らにしか救えない領域に達していた。

制度が記録しなかった身体。

制度が嫌った咀嚼。

制度が捨てた腹の声。

「食えば、思い出す。

 お前の身体が、まだ“制度じゃなかった”頃のことを」

誰かが言った。


夢の外で、ICUのモニターが、ほんの少し安定した。

梶原の意識が、再び浮かび上がろうとしていた。

が、その瞬間――

蝦夷の男が、最後にこう言った。

「お前の病気は、お前のせいじゃねぇ。

 制度ってやつが、お前の中で暴走したんだ。

 だから忘れるな。“制度”に殺された身体は、

 “制度の外”でしか、立ち上がれねぇ」

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