朧神

 さりさり、さりさり。

 勉強机の上にあるノートの上にある罫線の上で、シャープペンシルが走る音。

 黙々と、その芯をすり減らしている。


 ストレートボブに切り揃えられた月白色の髪が照明の光を柔らかく照り返している。身の丈と比べて少し大きな白衣を着たその子どもは、斜めにカットされた前髪の下、縁のない眼鏡の奥で星のような瞳孔を持つネイビーの目をペン先に集中させ続けていた。


 耳に付けたイヤホンからは和気あいあいとした会話が流れ、鼓膜を揺らしている。


 ホテルの広いシングルルームに似たその部屋は、簡素ながらもホテルのそれより生活感に溢れていた。本棚には教科書から漫画までが列ごとに並んでおり、その側面には色とりどりの折り鶴が丁度100羽、連なってぶら下がっている。


 しばらくして一区切りついたシオはペンを置き、少しばかり顔を上げて目を閉じながら小さく息を吐く。ノートを閉じ、机の引き出しに片付ける。

 その表紙には『朧神おぼろみ シオ』と名前が書かれていた。

 シオは右手をかざすようにゆっくりと伸ばし、手を握ったり開いたりを繰り返す。折り曲げた袖から出た手は黒く、肌のそれではない質感は鈍く光を照り返していた。


「宿題、終わったから落ちるね。……うん、また。じゃーね」


 そう呟いたシオは、机の端に置いていたタブレットに触れて通話から退出した。そのまま流れでメッセージアプリを開き、今日の報告を送る。……。…………。


「……珍し」


 いつもならすぐにでも付くはずの既読マークが中々付かない画面を見ながら、シオは思わずそう零した。そして、昼下がりに送ったメッセージも未だに読まれていない事に気付き、その眉を少しばかりひそめる。

 何となく嫌な予感がする。送り先に対してではなく、自分に対して、ここに対して。


 不意に、ドアをノックする音。


「シオ、今大丈夫かい?」


 既読の代わりに直接やって来た――聞き慣れた声がドアの向こう側からしたシオは、席を立って部屋の扉へと寄る。首元に付いたチョーカーを境目に、手だけでなく胴体も足も全て例外なく、黒いボディウェアがその全身を隙間なく包み込んでいるのが、ボタンの留めていない白衣の内側で見え隠れした。


 U字ロックを付けたままドアを小さく開けると、その隙間からクリーム色の癖毛をした青年が顔を覗かせてきた。


「お邪魔、しちゃったかな?」

「いや、丁度宿題も終わったとこ。……どしたの? 突然」


 まだ若さの残る顔立ちをした青年は、口角を片方あげる。


「そうだねえ、突然だ。シオに頼み事があってね。いいかな?」


 青年は首を傾げながら、細いフレームのメガネを正しつつそう答えた。ロックを外して扉を開けると、青年はキャスターが転がる音を立てながらシオの部屋へと入ってきた。

 青年の手が掴んでいたものがストレッチャーである事に気付いたシオは、その上に載っている少女に目線を吸い込まれた。


「に、人間」

「僕だって人間だろう。ベッド、寝かせて良いかい?」

「う……うん」


 青年と2人で少女の肩と足を持ってベッドに寝かせたシオは、無表情ながらも不安そうな目線を青年に向けた。


「見た事ない、誰? 外の人間が、なんでいるの」

「ここの子、だよ。初めて見るかもしれないけどね」


 シオは穏やかな表情で眠る少女の顔から目を離さない。艶のある青みがかった黒髪の先端は、腰どころか足にまで差しかかっている。乱雑に伸びて、手入れもされていなくて、どこまでも瑞々しい。


「少しばかり、様子や状態を見ていてほしくてね。そうだなあ……。友達に、なってほしい」

「と、友達? いきなり、言われても……知らないよ、なり方」

「学校のクラスメイトとは、上手くやれているんだろう?」

「クラスメイトには、まだ、顔も見せた事がないし。こんな、生身と、直接関わるだなんて……」


 困惑するシオの肩に、青年はそっと手を置く。


「できる見込みがなければ、頼んでいないさ。それに、シオの人生には遅かれ早かれ、必要だったものだ」

「…………。分かった」


「うん。気を張る必要はない。もし、何かあったらいつも通り、僕に伝えてくれ。すぐに駆け付けよう」


 青年は少女を乗せていたストレッチャーを引いて部屋の扉へ向かい、ドアノブに手をかける。


「ねえ、パパ」

「ん?」


 シオの声かけに、青年は動きを止めて顔だけ半分、振り返った。


「この子、本当は誰なの?」


 その問いに、横顔を見せる青年の表情は変わらない。


「直接訊いてみればいいさ」


 扉の閉まる音がした後、シオは少し大きく息を吸って、吐いた。

 さっきと同じ静かさのはずなのに、時計の秒針がいつもよりうるさく感じた。

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