021話 その光は、まだ名前を持たない


 万能薬エリクサーの効果で、魔力と体力は回復していた。

 股間のズキズキはまだ続いているが……それはまあ、戦闘に支障はない。

 男としては大いに支障があるが。


「これ、グリンの短剣やろ?」


 カナリアが差し出してくれた魔剣を受け取る。

 柄に軽く指を滑らせ、魔力を流し込むと、馴染んだ魔力の波長に応じて刀身が淡く光った。

 ――戻ってきた。これでまた戦える。


 その視線の先、探索者――“彼”は、たった一人で二体の巨大百足ムカデカデを相手にしていた。

 救援に駆けつけてくれただけでなく、エリクサーまで譲ってくれたこの人物。名も知らぬその背中は、誰よりも頼もしかった。


 そして、“彼”はちらりとこちらを振り返る。

 俺が立ち上がったのを確認すると、巨大百足の打撃を受け流す形で、俺たちの位置までじりじりと後退してきた。


「大丈夫か? “紫電”」


 兜越しの声は低く、くぐもっている。けれど、その中には確かな柔らかさが含まれていた。


 俺は、まず何よりも礼を。

「ありがとう。ええと――」

「“双貌トゥーフェイス”」


 初めて聞く二つ名だった。

 だが“紫電”という俺の二つ名を知っているあたり、俺が姿を消していた間に台頭した実力者だろう。


「“双貌”。救援も、エリクサーも……この借りは、必ず返す」


 彼は前を向いたまま、軽く首を横に振った。

「エリクサーは……復帰祝いだ。残りも取っておくといい」


 兜の奥は見えない。それでも、少しだけ口元が緩んでいるような気がした。


「……全部飲んだ」


 その瞬間、ギギギ……と音を立てる勢いで、双貌がこちらを振り向く。


「……全部? 原液で?」


 言うべきか迷った。でも、嘘をついても仕方がない。

 

 顔を上げられなかった。申し訳なさと羞恥でいっぱいだ。

「……あぁ」


 家一軒分の価値があると言われる万能薬の原液。それを躊躇なく一気飲み。

 しかも、ほんのちょっと味わってから、ではなく――クロウェアに強引に。


 いや、いや、でも。

 もう済んだことだ。誰のせいでもない。ないったらない。


「いや、うん。まさかとは思ったけど、やっぱりそうか。その…………大丈夫か?」


 さっきとは明らかにニュアンスの違う“だいじょうぶか”。

 優しさなのか、それとも生暖かい共感なのか。


 双貌は知っているのだ。万能薬の原液が、ただの回復薬ではないことを。

 高貴な者たちの“娯楽”として愛され続けてきた、その陶酔的な副作用を。


「…………ぁぁ」


 顔から火が出そうだった。

 いわば、“治療のためにもらった薬で多幸感に溺れました”という恥の上塗り。


 ――死にたい……。これが夢オチなら、いま起きても怒らないぞ俺……。


 恥じ入る俺を見て、双貌の空気が和らいだ気がした。

「復帰直後にしては、十分すぎるほど動けてる。あと、表情もいい」


 表情……?

 なぜかその言葉が耳に残った。


 俺の顔なんて、今日が初対面のはずのこの探索者に、わかるものなのか。

 一瞬、問い返そうとしたが――すぐにやめた。


 ――ま、酒に溺れてたのなんて、隠せてたわけもねぇか。


 かつて“紫電”と呼ばれた探索者が、病を理由に現場から姿を消し、安酒場でくすぶっていたのは誰の耳にも届いていたはずだ。

 魔法協会の掲示板が好きな噂好きの温床になっていることも含めて、俺自身が一番よく知っている。


 俺は誤魔化すように苦笑いを浮かべると、

「……ありがとな」

 それだけ返すと、双貌は何も答えず、前を向いたまま、ゆっくりと頷いた。


「それはそうと、“紫電”。あの頭上を飛んでる奴は? 殺していいのか?」


 巨大百足の頭上を旋回する鳥型の魔獣。その上に今回の一連の騒動の元凶がいる。


「あぁ。できれば生け捕りが理想だが、無理なら殺してもかまわない。ただし注意しろ。あいつは……魔物を操る能力を持っている」

調教師テイマーか?」

「正体は不明だ。だが、間違いなく人為的に怪物行進モンスター・パレードを引き起こし、下層から巨大百足を引きずり上げてきた張本人だ。野放しにしてはならない。奴の存在は、ダンジョンそのものの在り方を変える」


 迷宮は“挑む者”のためにある。

 それが“魔物の巣”に成り果てれば、地上と地下の境界が崩れる。

 それは、人と魔物の全面戦争の引き金だ。


 双貌は重く頷いた。

「状況、把握した。――まずは、あの二匹の虫けらだ。オレは左をやる。お前たちに右を任せられるか?」


 双貌は一人で一体を引き受けるというのか。


 双貌の首元にぶら下がった認識票には、三つ星の刻印。

 冒険者ランク、最高位――上級冒険者。


 俺は迷いなく頷いた。

「任せろ」


「ならばよし」


 双貌は一直線に、向かって左の巨大百足へと駆け出した。

 滑るような足運び。無駄のない剣の抜き方。音もなく、流れるように戦場へ溶け込んでいく。

 一太刀目は雷のように鋭く、百足の脚を切断するのが見えた。


 ――俺たちも負けてはいられないッ!


 それを見届けた俺は叫ぶ。

「カナリア、クイナ! 右の巨大百足は俺たちで片付ける! 要領は前と同じだ! クロウェアは周囲の警戒を頼む!」


「了解っ!」

「あたりまえだ」

「それでこそ、ね」


 声を確認するや否や、俺は右の巨大百足へと駆け出した。


 ――――今度こそ、この手で終わらせる。


 巨大百足が地を這い、その無数の脚で押し潰すように迫ってくる。だがその直前――空から魔法の雨が降り注いだ。


 クイナの魔法が正確に、頭部を狙って叩き込まれる。

 もちろん、巨大百足の外殻は魔法を弾く。それは知っている。

 だが、奴らには“魔法を受ける直前に、関節部を覆うよう動きを固める”という明確な隙がある。


 一人では突くことが難しい隙も――仲間がいれば違う。


 クイナの援護射撃は正確無比だった。

 高慢な言動が目立つ妖精族エルフ――だがその腕前は確かだった。

 カナリアのような爆発的な火力こそないが、緻密さと連射速度では明らかに勝っている。

 むしろ、クイナのような技巧派と肩を並べられるカナリアが異常なのだろう。


「カナリア。下層に続く出入口から魔物が多数。来るわ」


 クロウェアの鋭い声。

 こちらを振り返りもせず、静かに状況を告げる。


「ちっ……また呼んだか、あの狂人」


 俺は目の前の巨大百足から視線を逸らさずに、叫ぶ。

「カナリア! 任せられるか!?」


「うん! うちにまかせてーや!」


 彼女の声は明るい。軽やかだが、頼りになる。


「やーっ!」


 直後、少し離れた方向から轟音と爆発音が響いた。

 地鳴りのような振動が足元から伝わってくる。


 魔法火力特化――人型砲台。

 それがカナリアという少女の実力。破壊力だけなら、彼女に並ぶ者はそういない。

 精度は低い。接近戦は苦手。だが、そんな短所などどうでもよくなるほどの、規格外の火力を持っている。


「右手の壁の中、複数の魔物が移動中」

「おっしゃ! うちにまかせて!」


 クロウェアの索敵は、どこか魔法の域を超えている。

 詠唱もなければ、動きもない。ただ、空気のように周囲を“把握”している。


 ――出会った時から、彼女は謎だった。

 封印されていたのか、花の中から現れた美少女。瞬間移動。探索病を癒す不思議な力。

 今なお、彼女が“何者か”はわからない。


 背後で壁が砕ける音が響いたかと思うと、カナリアの快哉が響いた。

 どうやら、迎撃には成功したようだ。


「露払いは終わったわね。あとはグリンの番よ」


 クロウェアが背後から声をかけてくる。

 その声は、どこか嬉しそうでもあり、試すようでもある。


 あの出会いが、すべての始まりだった。

 彼女の目的は、この“冒険迷宮ダンジョンコラ”の踏破。

 俺の目的は、探索病の治癒。その見返りとして、俺が彼女と共に冒険迷宮を踏破する。


 俺も幸せになる。彼女も幸せになる。――きっと、それが理想だ。


 カナリアは、新人ニュービーの中でも明るくて優しい。

 できることなら巻き込みたくない。だが、彼女の実力はそれを許さない。


 クイナは、今回の緊急依頼クエストで加わっただけの仮メンバーだが、正直、今後も一緒に戦いたいと思っている。

 皮肉屋だが、信頼できる。近いうちに、正式な勧誘をしよう。


 だが、その前に――この絶望の象徴を、狩る!


 俺はダガーを握り、繰り返し、巨大百足の胴体を斬りつける。

 狙うのは外殻と外殻の隙間。そのわずかな裂け目に、魔剣の刃を通す。


 何度も、何度も。徐々に傷口は深まり、やがて皮膚と外殻の間に隙間が生まれる。

 そこへ刃を内側から滑り込ませ、魔力を込めて放つ――


 外殻の内側で炸裂した魔力は、行き場を失い、爆発する。

 外からは防げても、内側からの破壊には無防備。それがこの種の構造的欠陥だった。


 例えるならば、人間でいう“爪と指の間に爆竹を差し込まれた”ようなものだろう。


 ――痛いに決まってる。


 激しくのたうち回る巨大百足。

 俺は一歩退き、その動きが収まるのを待ってから、また近づき、繰り返す。


 まるで拷問官だ。

 だが、これが今の俺の最善手。


 ――四度目。


 ついに、外殻の一部が剥がれ落ちた。


「カナリアッ!!」


 俺の声に、カナリアはすぐさま反応した。


 彼女の手に、光が集まる。

 身の丈ほどの光球が、手のひらから離れず、しかし決して触れない距離で浮遊している。


 カナリアはゆっくりと、手のひらを握りしめる。

 すると、光は呼応するように圧縮され、輝きを増していく。

 最後には、拳ひとつぶんの大きさにまで凝縮されたその光は――直視できないほどの閃光へと変わっていた。


 まずい。これは――


「クイナ! クロウェア!”双貌”! 衝撃に備えろーーッ!!」


 俺の叫びと同時。


 双貌が仕留めたもう一体の巨大百足が、崩れ落ちていくのが視界に映った。

 賞賛を送る暇もなく、俺は全速力で後方へ駆けた。

 先に倒れた巨大百足の影に身を滑り込ませる。


 その直後――


 世界が、光に呑まれた。


 轟音。衝撃。巻き上がる砂塵。

 地面が跳ね、空間が軋み、まるでダンジョン全体が崩壊したかのような錯覚。


 生きているのか、死んでいるのかもわからない。


 耳鳴り。喉の奥に土。視界には何も映らない。


「ごほっ、ごほっ……」


 呼吸すら困難だった。


 嗅覚も聴覚も、すべて奪われていた。

 残るは、肌に伝わる冷たさと震えだけ。


 ……どこかで、手加減ってものを教えなきゃならないな。


 本当に、安全圏でよかった。

 通常の通路だったら、今ごろ崩落を招き起こし、瓦礫の下で再起不能になっていたはずだ。


 みんなは、無事だろうか。

 空を飛んでいたあの狂人は――無事ですまない、と思いたい。


 砂塵がようやく晴れ始めた。

 俺はゆっくりと死骸の影から這い出る。


 周囲はまだよく見えない。


 ふと、自分が隠れていた巨大百足の死体を見ると、

 それが大きく移動していた跡が地面に刻まれていた。


 一人で動かせるはずもない巨大な死骸。

 その位置を変えるほどの衝撃。


 俺は唾を飲み込んだ。


 ――カナリアが手加減を覚えるのが先か。

 ――俺が死ぬのが先か。


 以前クロウェアが笑っていた冗談が――今は、まるで笑えなかった。

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