018話 真祖の影に、虚構が舞う
「どちらへいこうというのですか?」
魔物の壁に塞がれた俺たちの背後――そこから再び、あの粘つくような声が投げかけられた。
振り返れば、地を這う
そこに立つのは、血に濡れた白衣をまとった狂気の美女。
その異様な存在感が、強制的に俺たちの脚を止めさせた。呼吸すら、浅くなる。
地上へと通じる出入口は、もう目と鼻の先にある。
だが、それを阻むように魔物たちが湧き出し、壁のようにうねりを成していた。
乾いた唇を湿らせ、俺は絞るように声を出す。
「どういうカラクリだ? いや、それより……お前の狙いはなんだ?」
だがその問いに、答えはない。
「どちらへいこうというのですか?」
先程とまったく同じ口調で、女が同じ言葉を繰り返す。
苛立ったようにクイナが叫ぶ。
「貴様、名は何という――!」
「どちらへいこうというのですか?」
また同じ問い。同じ笑みを貼りつけたまま、女は答えを返さない。
クイナの口元がひきつり、苦々しい声が漏れる。
「気狂いが……!」
意思疎通ができない魔法使いは、果たして人間と呼べるのか――。
頭の片隅で、俺はふと魔法生物学における定義を思い出す。
“魔法を使う生物”は魔法生物と呼ばれ、
そのなかで“人に敵対するもの”を魔物と定義する。
ならば――人に敵対する魔法使いは、魔物と何が違う?
「どちらへいこうというのですか?」
繰り返される機械的な問い。その響きに、俺は確信する。
――これはもう、人間じゃない。
カナリアが声を上げる。
「うちらは上層へ帰るんや! どかんかい!」
手を広げ、威嚇するように叫ぶが、狂人の態度はまったく変わらない。
四方から、魔物たちがじりじりと間合いを詰めてくる。
緊張が極限に達し、魔法一つ撃てば全軍が飛びかかってきそうな雰囲気。
決断が必要だ。
――わかってる。わかってたさ。
この状況で、誰かが囮にならなきゃいけないなんてことは、ずっと前からわかってた。
でも、それが自分だって決めるのは、やっぱり怖い。
死ぬのが怖いんじゃない――置いていかれるのが怖いんだ。
あいつらが前に進んで、俺だけがここで止まる。
その未来を、自分で選ぶのが……どうしようもなく、寂しい。
けど、だからって――俺がやらなきゃ、誰がやる?
探索病に犯されて俺と違って、あいつらはまだ陽の下の道を歩ける。
だったら俺は、その道を塞ぐ魔物を引き受けるだけだ。
俺は生唾を飲み込むと、
「お前たちは、先に行け」
そう言の葉を紡いだ。
「……は? なに言うてんの?」
動揺するカナリアに対し、クイナは一転して冷静だった。
「……悪くはない」
「ク、クイナ!?」
信じられないというように、カナリアがクイナを見つめる。
クイナは静かに言い返す。
「このままだと、僕たちは全滅する。なら確率の高い選択をするのが常道だ」
俺はその言葉に頷くと、
「俺が囮になる。カナリアとクイナでは機動力に欠ける。クロウェアは戦闘力に劣る。……この面子で最も適任なのは俺だ」
「グリン……っ」
カナリアの声が震える。わかる、俺だって死にたくはない。
誰が好き好んで巨大百足と
深く息を吸い、落ち着いた声で告げる。
「俺もここで死ぬつもりはない。時間を稼いだらすぐに後を追う」
カナリアの曇った瞳を見つめて続ける。
「で、でも……」
クロウェアが、あくまで淡々と口を開いた。
「……こうしてグズグズしている間にも、グリンの生存率は下がっていくわ」
その口調に感情の揺らぎはない。だが俺は知っている。彼女の目は、他の誰よりも先を見ている。
俺を見捨てたわけじゃない。ただ、合理的な判断をしただけなのだろう。
クロウェアが求めているのは、迷宮の最奥に到達すること。それだけだ。
その手段として、俺は探索病という鎖に繋がれた協力者にすぎない。
ここで俺を失えば計画は遠のく。だが、彼女は知っている――自分が生き残れば、また別の手を打てると。
この場での最善は、誰か一人が囮になること。なら、納得するのも当然か。
カナリアの肩に手を置き、俺は真っ直ぐに見据える。
「聞け。魔法協会に行って、『この緊急依頼は失敗だった』と伝えてくれ」
「じゃ、じゃあグリンは……?」
「……時間を稼いでから行くよ」
嘘じゃない。すぐに“逝く”つもりは、ない。
周囲に視線を走らせる。防護陣はすでに破られていた。
魔物たちが、まるで狩りを楽しむかのように四方から俺たちを囲んでいる。
「――走れ!」
その合図とともに、三人が駆け出す。
俺は手に持ったダガーの柄に魔力を込めた。
「振り返るな!」
カナリアとクイナが魔法を放ち、魔物の壁に一時の風穴を開ける。
その隙に彼女たちは進む。
俺は迫る魔物たちに駆け寄り、その腹を、喉元を、躊躇なく切り裂く。
出入口へと続く彼女たちの道を、俺の手で守る。
背後に魔物の気配。振り返らず、前を見据えたまま、呟く。
「ここから先は……通行止めだ」
両手のダガーを構える。
死ぬ気はない。生きて帰る。それだけが、俺の戦う理由だ。
包囲を破って数体の魔物が飛び出してきた――その瞬間、
――ズドン!
そのすべてを、巨大百足の脚が踏み潰した。
バチュッと湿った音とともに、血飛沫が舞い上がる。
瞬時に服が、顔が、ネバついた魔物の体液で覆われる。口に少し入った。苦い。――吐き気がする。
巨大百足が、地響きを立てて目の前に迫っていた。
その背に乗る女と、俺の視線が交わる。
狂気は、微笑んでいた。
そして、静かに口を開く。
「ワタシは……最強の生き物を作りたい」
「……は?」
思わず間抜けな声が漏れた。
いきなり何を言い出すかと思えば――俺はあきれたように目を瞬かせた。
「最強の生き物を、作りたいのです」
混乱する俺をよそに、狂人は高らかに言葉を紡ぐ。
「天空の覇者
――話が長そうだな。なら、都合がいい。
俺は頭の混乱を即座に整理し、時間を稼ぐために“話を合わせる”選択を取った。
「その三つなら、古竜じゃないか? 大海蛇は陸に上がれば無力だし、山象は遅すぎる。けど、空を飛ぶ竜からは逃げられない」
狂人は満足げに白衣を翻し、巨大百足の背の上で演説めいた身振りを加える。
「ワタシの理想はもっと先にある! この手で――“ワタシのかんがえたさいきょうの魔物”をッ!」
――なに言ってんだ、コイツ。
飛びかかって斬ってやりたい衝動に駆られる。だが――今はその時じゃない。
仲間が逃げるまでの時間。それだけを稼ぐと決めた俺は、冷静さを保ち続ける。
「けどな、お前は忘れてる。最強ってのは――しぶとくて、しつこくて、絶対に諦めねぇ“人”だ」
狂人の赤い目が、すっと俺を捉えた。笑みが消える。視線が、言葉の続きを促す。
「竜も、蛇も、象も。確かに強い。だが、人が殺せなかったわけじゃない。歴史がそれを証明している」
――言いきった。いけるか?
「何を言い出すかと思えば……実に下らない」
狂人の目に落胆の色が灯った瞬間、俺は焦って声を張った。
「――だが、“吸血鬼”! これに勝る怪物がいるか!?」
その名が空気を裂いた。
俺の言葉に、狂人の目がびくりと反応した。
その瞳が見開かれ、虚ろに泳いだかと思えば――唐突に、言葉を紡ぎはじめた。
「吸血鬼……あぁ、もちろん知ってますとも。ええ、知ってますとも」
その口調は興奮と恍惚が入り混じっていた。まるで、愛を語る詩人のように。
「かつてこの大陸を席巻した魔人族。その中でも、最も特異で、最も完成された存在。それが吸血鬼」
くるり、と白衣の裾を翻して巨大百足の頭の上を反復しながら、狂人は続ける。
「魔人の国の中枢を担い、大陸を統一寸前にまで導いた夜の覇者。あぁ、どれほど美しく、どれほど強大だったことか」
狂人の声音には艶のあるうっとりとした響きがあった。
「そして――真祖、黒薔薇公」
その名を口にする時、狂人の声は一段と熱を帯びた。
「一にして全。最初にして最後。吸血鬼を象徴し、世界を震え上がらせた存在」
黒薔薇公の名は大陸上に広く知れ渡っていた。
すべての吸血鬼の産みの親であるとも謳われる真祖。
一人で一国を滅ぼすと言われた、文字通りの不世出なんて言葉では足りない、不傑出の怪物。
「彼が率いた眷属もまた、人智を超えた怪物ぞろい。血により契約されたその力、その忠誠、その純粋さ――ああっ、なんて“完全”だったことか!」
その死から何百年と経過してなお語り継がれる存在。その力はあまりにも強すぎたため、現存するすべての国の史実に登場する真の怪物。
その名を呼ぶと、黒薔薇公が来ると本気で信じられていた時代もあり、各国で名を呼ばないようにと、正式にお触れが出されたくらいである。今でもその名残で人は彼を黒薔薇公と語り継ぐ。
「しかし……強すぎた、あまりにも。その結果、各国は手を取り合って彼を討った。そして吸血鬼たちは――瞬く間に表舞台からその姿を消した」
口調は愉悦から哀惜に変わり、やがて慈しむような囁きへと沈む。
「今じゃ、血を薄めた混血がほんのわずかに残るだけ。純血は絶滅。かつての美しき夜の民は、もう見る影もない」
狂人の目が細められ、口元が歪む。
そして――ぽつりと呟いた。
「ないのであれば、ワタシの手で作りたいのです。愛せるほどに、完全で、完璧な標本を――」
一拍の沈黙。
そして、唐突に狂人は俺を凝視した。
――ここだ!
俺は本能的にそう悟った。
「フッ、なにを隠そう、俺はその黒薔薇公の血を引いている!」
出まかせだ。だが、それでいい。言ったもん勝ちだ。
「お前はそれを知らずに“最強”を語ったんだな。――片腹痛いぜ」
狂人の目が、ひときわ見開かれる。
濁った眼球が見開かれ、瞳孔が一瞬で絞られた。
「……ぃ」
息のような、音ともつかぬ呻きが口から漏れた。
顔をくしゃくしゃに歪め、両手で自分の頬を裂くように掴み、狂人は叫ぶ。
「ほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしい――!!」
壊れたように連呼されるその言葉。俺の背に、つうっと冷たい汗が流れる。
――まずい。釣り針を大きくしすぎた。
狂人は、感情を脱ぎ捨てたような無表情を浮かべ、ぽつりと命じる。
「死なない程度に、痛めつけなさい」
その合図で、巨大百足がうねりを上げて動き出す。
狂人は空から飛来した鳥型の魔獣に乗り移り、空へと舞い上がった。
「ちっ……!」
止めようにも、百足の突進が遮る。
その質量はまさに暴力そのもの。真正面から喰らえば、木端微塵だ。
「高く見積もられてんのか、俺も」
空を見上げると、狂人を乗せた鳥が旋回していた。
――吸血鬼は、その再生力の高さでも知られている。
死なない程度に、がどの程度を意味するのかは……正直、あまり想像したくない。
「黒薔薇公の名を騙るのは……ちょっと早まったな」
もっと繊細な相手にしておけば、と後悔する暇もない。
けれど、後の祭りだ。
俺は両手で握ったダガーを強く握り直す。
仲間が逃げきるまで、死んでやるわけにはいかない。
巨大百足が咆哮を上げる。
その全長の影が、俺を飲み込もうとしていた――。
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