2. 王太子殿下の来訪

「――アイリス、今すぐ来なさい!」


 私が家出の決意を固めた時、お義母様が慌てた様子で走ってきた。

 不正が王家にバレたのかしら? それとも、別の悪事がバレたのかしら?


 両方の可能性だってあるから、何も知らない風を装って言葉を返すことにした。


「何かございましたか?」

「今すぐドレスに着替えなさい! ザーベッシュ伯爵家に相応しい装いになるのよ。

 ただし、ジュリアより地味になるように!」

「あの……私、ドレスは一つも持っていません」


 この四年間、社交界はおろか屋敷の中で着るようなドレスさえ与えられていないのだ。

 それより前に買ってもらったドレスは全て売られてしまって、私の服は今着ているもの一つだけ。


 寝る前に洗って干しているものの、日々の掃除で薄汚れている上に擦り切れているから、とても人前には出れない。

 そのことにお義母様も気付いたらしい。


「そういうことなら、今回は特別にジュリアのドレスを着る許可を与えるわ」


 私はジュリアの部屋に連れていかれ、いつもは私を虐めている侍女たちに囲まれ、一番地味だというドレスに着替えさせられる。

 地味だというのに、このドレスにはフリルが沢山ついていて、宝石まで散りばめられていた。


 ジュリアはこれよりも派手なドレスを着ても平然としているけれど、私はすでにドレスが重すぎて音を上げそうだ。

 おまけに胸元や背中は開いていて、着ているだけでも恥ずかしい。


「――痣が目立つのもまずいわ。王太子殿下に暴力を悟られるわけにはいかないもの。メイクで隠しなさい」


 どうやら王太子殿下が訪ねてくるらしい。

 お義母様は暴力が悪いことだと知っているようで、私の痣が王太子殿下の目に入ることを恐れている様子。


 王族の来訪ともなれば、家族全員で出迎えるのが当たり前。

 私にひどい仕打ちをしてくる義両親でも、その常識は持っているらしい。


 酷い腫れに、いくつもの切り傷に、ボロボロの肌。それに加え、紫色になっている大きな痣まで。

 とてもメイクで誤魔化せるとは思えないけれど……余計なことは口にしない。


 こうして、私は手や足にもメイクをされ、殿下をお出迎えすることになった。



   ◇



「――本日はどのようなご用件でしょうか?」


 十年ぶりに目にする王太子のイアン殿下は、義両親やジュリアには一切興味を持たず、私に視線を向けている。

 お母様が王妃殿下と仲が良く、彼とは何度か顔を合わせたことがある。


 最後にお話しをしたのは六歳の時。だから、イアン殿下に興味を持たれているとは考えにくい。

 有り得ないくらい濃いメイクに引かれていると考えるのが自然だ。家出をするのだから殿下からの心象はどうでもいいけれど、今の状況でいい気分にはなれなかった。


 殿下の隣には文官と思わしき装いの男性が控えていて、最初に彼が口を開く。


「半月前に手紙を出していますが、届いていないでしょうか?」

「まだ届いておりませんわ」

「では、改めて説明いたします。

 イアン殿下には、まだ婚約者がいらっしゃらないことはご存じかと思います。そこで、今回は殿下と歳の近い令嬢とお話をし、婚約者の候補を決められることになりました。

 幸い、お二人とも揃っているようなので、まずは妹のジュリア様と殿下でお話をしていただきます」


 文官にそう言われ、ジュリアが先に応接室で殿下とお話することになった。

 私は廊下で待つように言われたけれど、応接室の扉は少しだけ開けられていて、ここまで会話が聞こえてくる。


 でも、その会話はすぐに終わり、表情を曇らせたジュリアが姿を見せた。

 聖女になれば王族と結婚出来るというのは平民の間でも有名なお話なのだけど、雲行きが怪しいみたい。


「次はお前の番よ」

「分かりました」


 十五歳になった時に貴族の慣例にならってデビュタントを済ませ、社交界に何度も顔を出しているジュリアでも話が続かないなら、私が会話を広げることは難しいだろう。

 私は十六歳になってもデビュタントをさせてもらえず、王族の好みは一切分からないのだから。


 話が弾まないなら、せめて粗相はしないように、しっかり礼をしてから中に入る。


「――立っていては疲れるから、座って」

「失礼します」


 断りを入れてから席に着くと、殿下に笑顔を向けられた。

 こんなこと予想していなかったから、どんな表情を浮かべていいのか分からない。


 十年前と変わらないのは、明るい金髪と澄んだ青い瞳くらいだ。

 顔立ちは大人びていて、十年前とは印象が全く違う。背は私よりずっと高く、お顔も整っている。正直に言うと、格好いいと思う。


 けれど、その目は笑っていなかった。


「アイリス嬢、そのメイクは誰の趣味かな?」


 そう問いかけられた時、扉の隙間からお義母様に睨まれていることに気付いた。

 口元は「傷に気付かれたら殺す。自分の好みと言いなさい」と動いている。


 こんなことで殺されるなんて、絶対に嫌だ。地獄のような日々のせいで出来なかったことを、これから楽しもうと思っていたのに……。


「……私が侍女にお願いしました」


 まだ死にたくない。

 だから、嘘をついた。


「君の義妹の真似なら、もっと濃くした方が良い」

「どういう意味でしょうか?」

「そのメイク、似合っていないからやめた方が良い」


 怒られることはなかった。

 けれど、心配されているらしい。


「ご助言ありがとうございます。でも、私が社交界に出ることはないので、大丈夫です」

「それはどうだろうか。まあいい、話はこれくらいにしよう」


 殿下はそう口にすると、含みのある笑顔を一瞬だけ浮かべ、立ち上がる。

 そうしてお義母様の待つ廊下に出ると、こんなことを口にした。


「アイリス嬢を婚約者候補にする」


 その瞬間、お義母様とジュリアから、射貫くような視線を向けられた。

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