第2話 尚徳殿
翌朝。
政務のため
尚徳殿は主に朝見に使用されている建物だ。広々とした造りで、百官だろうが千官だろうがすっぽり収まってしまうくらい広い。
巨大な建物は往々にして内部が暗くなりがちではあるものの、尚徳殿はところどころに、明り取りの窓が設けられている。おかげでこの規模の建築にしては、日中常に爽やかな光で溢れている。吉祥柄の透かし彫りで彩られた瀟洒な窓は、この建物を象徴する名物でもあった。
その瀟洒な窓すべてが──今朝から、黒く分厚い布で覆われている。
ふだんなら朝の光で満ちているはずの尚徳殿の内部は、まるで夜のように暗かった。
それだけではない。皇帝が座する玉座の背後には、長大な御簾が垂らされている。彼は皇后が政治の場に臨席することを好まない。だからふだんは、皇后の目隠し用の御簾なんてしまい込まれているはずなのに。
ざわざわと、百官が口々に異変を囁きあっていると。
「皇帝陛下、御光臨!」
皇帝、楊僥信来臨の時刻である。侍従の宦官が甲高い声を上げ、天子を迎えるための銅鑼がごわわんと打ち鳴らされた。
臣下一同が、しんと静まり返る中に。
ぴょん、ぴょん、と──皇帝陛下は跳躍しながら現れた。
両腕をまっすぐ前に突き出して。
額に揺れる、黄色い呪符。
膝は曲げずに足首だけで、ぴょんこらぴょんと。
皇帝、楊僥信は異様すぎる登場を果たすと、玉座の前でピタリと止まる。そしてぐりんと正面へ向きを変えると、ギシギシと腰をきしませて着座した。腕はなおも前方へ突き出したまま。
「がう」
意味不明の勅語に、満座の困惑は最高潮である。
「え、なに……?」「さあ……」と全員が戸惑う中。
一方春霞はこそこそと、玉座裏の御簾の向こうを移動していた。気配をひそめて、采女はそっと皇帝の傍に控える。
キョンシー使いの女は、ふぅと安堵のため息をついていた。
──よし、みんな誤魔化されてやがるわね!
春霞の目は節穴である。宰相やら大臣やらは「え、陛下どしたん?」「歩き方なに? キョンシー?」とざわざわしている。
さて昨晩。皇帝をキョンシーにするという一か八かの試みは、無事に成功を果たした。楊僥信はいまや、春霞の意のままである。
ただしキョンシーにするだけでは不十分だ。陛下が死んだことを誤魔化さなくてはならない。
そのためにはしなければならないことが、二つある。
一つ、皇帝の身柄を常に春霞の傍に置いておくこと。
一つ、為政者として平常通り
少なくとも、春霞の懐妊がはっきりし、かつ皇嗣を出産するまでは続けなければならない。跡継ぎさえ生まれれば、キョンシーには事故を装って死体に戻ってもらうことになる。皇帝も不慮の死であったろうに、そのことはちょっと気の毒だけれども。
そうは言っても。男児が生まれたら夢の垂簾政治。正直春霞はわくわくした。じょじょじょ女帝! ふんふらふん!
アホの采女は御簾の後ろで、鼻息を荒くしている。
ところで、キョンシーを制御するにあたって、注意点がいくつかある。
まず、キョンシーは日光に弱い。少し日に当たるだけで、皮膚に火傷状の症状を発してしまうのだ。死んでいるとはいえ、さすがに可哀そうである。
だから春霞は早朝、皇帝の命を装って、この尚徳殿の窓をすべて黒布で覆わせたのだ。おかげで宮殿の中は夜のように真っ暗で、ところどころの蝋燭の火だけでは照明として心許ない有様である。図らずもこの暗がりは、皇帝の土気色の顔や春霞の存在を覆い隠すことにも効果を発揮している。願ったりかなったりだ。
そして、キョンシー制御における注意点ふたつ目。
術者はキョンシーに対する指示を、声に出して伝えなければならない。
だから春霞は常に僥信についていなければならないわけだ。
しかし采女の身分では、なかなかそうもいかない。下級の妻妾がずっと陛下の傍に控えているのは、さすがに不自然だ。だから。
春霞はひそひそと、キョンシー陛下の耳元へ囁きかけた。
「洪春霞を皇后にすると言いなさい」
これは必要な措置であるとともに、春霞の夢でもある。
「…………」
キョンシーは術者の言葉を聞いて、ちょっと黙っている。
え、術効いてない? と春霞が訝しんだときだった。
「……それ、さすがに、むり」
ぼそぼそと小声で僥信が苦言を呈してきた。
「いきなり、皇后、恨み、買う。私、春霞、心配」
片言で告げられる忠告に、春霞は冷静に「ふむ」と思案顔だ。
忠告の内容もさることながら──キョンシーが術者の命を聞かずに、自律行動を示してきたことに対する戸惑いがある。
春霞はおばあちゃんのキョンシー指南を思い出した。
キョンシーとは、亡者が正しく葬られず、霊魂がちりぢりになってしまったことで変じる怪物である。霊魂とはすなわち、喜怒哀楽といった感情や記憶、意思などといったものから構成される。
楊僥信の死体にはもしかすると、部分的に政務や日常に関する記憶や意思が残されているのかもしれない。
こういった細かな考察を「もしかしたらちょっと思い出残ってんのかな」と雑な感想で片付けて、春霞はうん、と頷いた。皇帝キョンシーの苦言はもっともだ。春霞は恨みを買いたくない。
「ひとまず、
「じゃあそれで」
春霞が同意すると、キョンシー陛下はギチギチとした動きで、小さく頷いてみせた。
僥信は「み、みな、きき、聞け!」と、若干滑舌悪く口火を切る。キョンシーは死後硬直のせいで、関節を柔軟に動かすことや、流暢な発話が苦手である。
「こ後宮、人事! 采女、洪春霞、世婦……才人と、する!」
才人というのは、世婦という妻妾の階級の中の、さらに一番下の階級である。しかしながら采女から飛び級でとなると、大出世だ。
不器用な発音に、官吏たちは「今日皇帝いつもより滑舌わるくない?」などと口々に言いながらも、僥信の発案にはさして異論を挟まず受け入れた様子である。きっと昨晩きまぐれに訪問した下級の妻妾が、思いのほかお気に召したんだなくらいのもんである。まさか目の前の皇帝が腹上死しているなどとは夢にも思わない。
ともかく春霞の身の上に関しては、今後段階的に出世を遂げていく算段ができたわけだ。アホの娘は声を潜めて「ッしゃあ!」と、御簾の裏で拳を握りしめている。
しかし朝見はこれだけでは終わらない。ここは尚徳殿。国家の運営を議論する、政の場である。
いましも一人、甲冑姿の武官が主上の前へ進み出てきた。甲冑ごしにも分かる、鍛え上げられた魁偉な肉体。
いかにも庶民からの成り上がり上級武官という風貌だが、意外なことに彼は皇族である。僥信の叔父で、
「ご機嫌麗しゅう陛下。今日も今日とて、戦争のご提案に参りましたぞ!」
「ヒ……」
叔父からの大音声の挨拶に、キョンシーは少し怯えた様子を見せた。肉体に僅かに残る記憶が反応するほど、この男が苦手らしい。
「この劈仁、我が国の繁栄のため、異民族の国を吸収し、原住民を奴隷にしてどちゃくそ利権を貪りたく存じます。どうか軍備増強のため、よりいっそうの増税にご賛同を! ガハハのハ!」
「が、がお……」
「アァ!? いま何かほざきやがりましたかアァン!?」
「ヒッ……!」
なんこいつ、陛下に対して態度悪すぎん? と御簾の後ろで様子を見ながら、春霞は思った。それにしても、僥信も異常に怯えた様子を示している。「こいつら昔なにかあった?」と春霞は訝しむ。
甥と叔父のこのやりとりを見守る他の官吏たちは、「また始まったよ」と呆れ顔である。皇叔が軍部の長として皇帝に強権を振りかざし、黙殺する光景は、この尚徳殿では日常茶飯事であった。
「さあ、増税および軍備増強! うれしはずかし宣戦布告の御聖断を!」
叔父は目を爛々と輝かせながら甥に迫る。僥信は「がお……」と俯いて諦めの気配を醸している。
「ちょっとちょっと、陛下」
春霞は僥信へこそっと話しかけた。
「ねえねえ、しんどい思いするくらいなら、叔父さんの言うこと聞いちゃえば?」
娘にとっては、目の前で繰り広げられる政争は割と他人事である。戦争、増税? ふーん勝手にすれば。私は後宮でぬくぬく暮らしてるし。いまんとこキョンシー操るので忙しいし。……ってなもんである。
けれど皇帝キョンシーは、また言うことを聞かなかった。僥信は朴訥な口調で、ぼそぼそと呟く。
「できない……。叔父上、戦争、狙ってる、場所。春霞、地元、近所」
「え……?」
なんで陛下が私の地元知ってんの? と春霞は疑問に思う。昨晩、絶命確定生絞り前にそんな会話したっけ?
しかし正直なところ、春霞は情事直前の会話の記憶が曖昧であった。皇嗣を宿すことに必死だったからである。
「侵略、だめ。民、重税、負担……夷狄、恨み、ない……」
「…………」
気弱だけれども、どうやら元々は仁君であったらしい。なかなかええやつやんこいつ、と春霞は思う。
そしてやっと──目前で繰り広げられる政争が、自分ごとになってきた。そうか、これを止めないと、おばあちゃん達が──。
しかし肝心の皇帝陛下は、臆病な気性ゆえ、叔父に逆らう勇気がなかなか出ないようだ。生前の薄弱な記憶しか持っていないだろうに、キョンシーは怯えたまま俯いている。
「……大丈夫だよ、陛下。私がついてる」
「春霞……」
「もしあいつが陛下に何かしたら、そのときは私が──キョンシーになるのも無理なくらい、カッピカピになるまで搾り取ってあげるから」
「ワ、ワ……!」
励ましが効いたのだろうか。キョンシーは「私以外、搾り取る、ヤメテ」と一声小さく抗議した後に、ギシギシと首の関節をきしませて、正面を向いた。呪符の奥の瞳は、まっすぐ叔父を見据えている。
「ち……朕は、侵略、反対!」
そして思い切った発声で、僥信は叫んだ。思わぬ応答だったのか、楊皇叔が「えっ!?」とひるんだ。
「ぞ、増税、もっての、ほか! 平和、いちばん!」
少ない語彙で必死に抗弁する天子に、文武問わず官吏一同は、ぽかんと主君の方を見上げている。
呪符ごしに南面しながら、僥信は続けた。
「この話題、もうおわり! つぎ! がう!」
それからの朝見は、これまでにないくらいに白熱した。
春霞は知らないけれど、それまでの楊僥信の評価は「暗君」である。いつも所在なさげで自信もなく、体力もなければ発言力もない。
お飾りの皇帝。それが楊僥信。
……だったのに。キョンシーになってからの方が、むしろ活き活きと政治に参加している有様である。
春霞も一緒に政へ参加している気になって、ちょくちょく御簾の後ろから皇帝へ語り掛けた。まさか、夢にまで見ていた垂簾政治が、こんなに早く体験できるとは。
しかし厳密に言えば、意思決定はほぼ僥信が行っていたので、春霞が政を動かしていたわけではない。娘がしたことは──気弱なキョンシーを勇気づけたことだ。
娘は密かに皇帝に寄り添い、ときに励ましときに助言し、ときに「やるじゃん」と声をかけたりした。死んでいる僥信の顔色は、赤面の代わりにちょっとだけドス黒く鬱血したりもした。けれど、あいにく宮殿の中が真っ暗なので誰も気づかない。
いや──。さすがに数名ほど、皇帝の異変に、間近で気付いている者がいた。そのうちのひとりが、宰相の
劉宰相は玉座の最前に控えているので、皇帝の額に妙な呪符が貼りつけられていること、御簾の後ろに妙な女がいることなどを、すべて把握している。
「あの……劉宰相。あれ、つっこまないので?」
若手の官吏がひそひそと語りかけてくるのに、劉宰相は扇子で口許を隠しつつ、こっそりと考えを告げる。
「うん、おそらく陛下はすでに崩御されている。そんで後ろの女にキョンシーにされたと見た」
「えっ、一大事じゃないっすか」
「ふつうに考えたらそう。でも──陛下にはまだ世継ぎがない。いま下手にこの状況を暴き立てれば、宮中に混乱を招きかねんだろう。それこそ、帝位を狙う楊劈仁には有利な状況だ」
「なるほど、戦争中毒の危険人物である楊皇叔が帝位に就けば、国が傾きますからね。ご判断に納得です。勉強になりまぁす」
「……というわけで、彼女はしばらく泳がそう。ま、むしろキョンシーにしてくれたことは、いい時間稼ぎになるかもしれん。それに『洪一族』のはしくれならば、まず暴走はさせないはずだ」
そこまで語ると、劉宰相は若手部下を振り返った。老臣はいっそう潜めた声でこう命じる。
「簡州が慶雲山に住まう道士を密かに呼び寄せてください。きっとあの方の力が必要になる──」
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