第九章「ひまりの過去」
雨が降っていた。午後、放課後の校舎は静かで、屋上から見下ろすグラウンドには人影もなかった。傘を差す生徒たちがぽつぽつと下校していくなかで、なる実は無言で資料を抱え、視聴覚室へと歩いていた。髪が頬に張り付き、靴の裏からじわりと水が染みる感覚すら、彼女は気にしない。今日は、確認すべきことがある。ずっと目を逸らしてきたが、それでも知る必要があると感じていた。
視聴覚室には、誰もいない。灯りもついていない。だが、彼女は静かに端末を開き、パスコードを打ち込んだ。画面に表示されたのは、「来栖ひまり——過去ログ(非公開)」というファイル群だった。元々は削除されていたはずの記録。それを彼女は、学園の深層サーバーから掘り起こしていた。正規ルートではない。監視委員会に気づかれれば処罰対象になる危険な行為。それでも、なる実は一つずつファイルを開いた。
最初に表示されたのは、ある医療機関の記録だった。来栖ひまり——幼少期より、強い共感性と観察力を示す。成人に近い論理的言語を用い、対象の心情に過敏に反応する傾向あり。家族環境、静か。両親は教育関係者——その記述を読み進めるほどに、なる実の手が止まった。
ある一件が、ファイルの中央に強調されて記されていた。十歳の頃、ひまりは事故に遭っていた。通学途中、横断歩道で彼女の前に飛び出した幼児をかばって車に轢かれ、軽度の脳震盪と打撲を負ったが、命に別状はなかった。しかし、その事故を境に、彼女の“共感性”が急激に変質したと記録されていた。
それまでは“人の感情がなんとなく分かる”程度だったものが、その日を境に、他人の心情をまるで“内面の声”として感じ取るようになったという。しかもそれは、表面的な言葉とは一致しない。言っていることと、思っていることの“差異”が、明瞭に“響く”ようになったという。
——私は嘘を見抜いてしまう。
——私は言葉の裏側で、人の本音が揺れているのを感じてしまう。
——だから私は、友達を傷つけてしまう。
小学生の頃に書かれたとされる日記のスキャン画像が、ファイルに添付されていた。そこに綴られていた言葉は、なる実の心をひどく締めつけた。
——私は、誰にも嘘をつかせたくない。だから、誰も近づけない。
なる実は、その一文に視線を落としたまま、しばらく何もできなかった。彼女は確かに、誰からも恐れられず、慕われる存在だった。しかし、その背後にあるのは、自らを孤独に閉じ込める“制御”だったのだ。カリスマではなく、自衛。共感の力を、他人を動かす武器としてではなく、自分を守る盾として使っていた。
——じゃあ、あの笑顔は?
——あの静けさは?
——あの沈黙は?
それらが“選ばれた結果”であったことに、なる実はようやく気づいた。ひまりは、誰よりも“距離をとること”を意識していたのだ。近づけば、壊してしまうから。触れれば、相手の“嘘”に気づいてしまうから。
「だから、“命令しない”んだ……」
なる実は、声に出して呟いた。強さではなかった。拒絶でもなかった。ひまりが誰かを支配しないのは、自分の“見えすぎる力”を恐れていたからだった。
そのとき、背後でドアが開く音がした。なる実は反射的に端末を閉じた。振り返ると、そこにいたのはひまり本人だった。雨に濡れたままの姿。何も言わず、ただ視聴覚室の奥に歩いてくる。表情は、変わらない。けれどその目には、何かを“見ている”光があった。
「調べたのね。全部」
その声に、怒りはなかった。ただ、淡い納得の気配と、少しだけの寂しさが滲んでいた。
「……ごめん。でも、どうしても知りたかったの。あなたが、どうしてあんなに静かでいられるのか」
「静かにしていないと……自分が崩れるからよ」
それは、告白だった。ひまりは、ゆっくりと教壇の縁に腰かけた。校庭の雨音が、ガラス窓を打ち続けるなかで、彼女は遠くを見るように言葉を継いだ。
「子どものころは、普通の友達だった。わたしにも。でも、ある日、何かが“聞こえすぎる”ようになって……相手の気持ちの揺れとか、ちょっとした嘘とか、そういうものが全部、音みたいに響くの。否定も肯定もできなくて、ただ、そこにある“違い”が突き刺さる」
「怖かったでしょうね」
「怖かったわ。でも……分かることは、悪いことじゃないとも思った。誰かが本当は“泣きたい”のに笑ってるとき、わたしだけが気づいて“そっとしておける”から。そうやって、少しずつ、“何もしない”ことが、わたしの方法になっていったの」
なる実は、黙ってそれを聞いた。ひまりの声は、淡々としていて、けれどその静けさの中に、何層もの想いが積み重なっていた。人と関わることを避けたのではない。関わらずに“守ろうとした”のだ。
「でも、それって……とても孤独じゃなかった?」
ひまりは微笑んだ。その笑顔は、演技でもないし、誰かに向けた“表情”でもなかった。まるで、ようやく誰かに届いた安心のようだった。
「孤独よ。でも、それが“誰かの自由を守る孤独”なら、私は受け入れられる。だから、わたしのそばにいてくれる人には、感謝してるの」
その言葉に、なる実の心の奥で、何かが解ける音がした。理解ではない。共感でもない。ただ、ようやく届いたという実感だった。
そのとき、部屋のドアがもう一度開き、遥希が息を切らして現れた。
「……ひまり、なる実。二人とも、外に出たほうがいい。今、学園が動き出してる。“白光”の名前が、正式に発表された」
その一言に、ひまりの目がわずかに動いた。そして、立ち上がる。
「……そう。じゃあ、始めましょう。“選ばせる時代”を」
第九章、完
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