第09話 記憶にございません


「はーいじゃあ今日はここまで、レポート忘れるなよー」


 中年男性の低い声が響き渡った大学の広い講義室。


 その合図をきっかけにジィーっとカバンを開けるファスナーの音が鳴り、トントンとテキストを揃える音が重なる。最後はぐわぁあああっと課題に対する嘆きの声を合わせてフィナーレだ。


「あれ……、今俺って何の講義受けてたんだっけ?」


 朝一に散った淡い……いや、どちらかと言えば煩悩まみれの恋心と共に、どうやら俺の記憶力と注意力もどこかへ旅立ってしまったらしい。


 ん?


 ぼんやりと視点を下ろすと、ノートの真ん中にぽつんと文字がひとつ……。


〝サキュバス 〟


「…………」


 無意識で書いてしまったのであろうそれを数秒間みつめたのち、俺は消しゴムでゴシゴシと削り取った。


「あれは夢だ夢、切り替えろ俺」


 ぐぅうううう。


 不意に鳴った腹の音。そうだそうだ、ありもしない妄想なんかより現実の空腹のほうがよっぽど切実な問題である。はやめに解消するとしよう。


巧史朗こうしろう、昼メシいこうぜー。ってうぉっ!? どうしたんだよお前。顔死んでんぞ、寝不足?」


 ポンッと叩かれた右肩に振り返ると、視界に坊主頭……じゃなくてジャガイモの輪郭がカットインしてきた。


「あぁジャガイモか。まぁ、ちょっとな」


 この素朴な蒲郡がまごおり 猿道さるみちみたいなのはジャガイモ。大学入学以来、ずっとつるんでいる気の合う友人だ。


「誰がジャガイモじゃい、ぶっ飛ばすぞ。サツマイモみたいなつらしやがって」

「ははっ、すまんすまん。ちょっと落ち込んでてな」


 俺は九州の山奥、一面のクソ緑。

 コイツは北海道のど真ん中、一面のクソ平野。


 都会に出てきた田舎者同士で意気投合したってワケ。いやぁクソ田舎出身に悪い奴はいないね、これは俺の持論である。

 

「なんかあったんか? 話なら聞くぜ」

「聞いてくれよ、あのさぁ……」

「おうおう、まぁメシ食いながらな」


 俺の言葉を遮った猿道さるみちは、その真っ白な歯を輝かせながらドアに向かって親指を立てた。


 講義室を見渡せば、残っている学生は数人。

 内容的にはこの場で話す方が気は楽だが……まぁいいか。


「あ、あぁ……」

「ん? どした?」

「いや、なんでもない。じゃあ食堂いくか」

「おうっ、腹減った~。何食おうっかなー」

「今行くとやばそうだな」

「確かに、でもまぁなんとかなるっしょ」


 うちの大学はまぁまぁ広い。そして在籍する学生の数も多い。それに対して食堂は構内に何個あるか? 二個だ。つまり何が言いたいのかというと……めっっつちゃ混む。


 おそらく俺の隣には顔も見たことがない奴が座るだろう。そんな状況下で、昨日夢にサキュバスが出てきて朝起きたらパンツにシミが出来てました、なんて切り出すのはなかなかチャレンジングな気がした。


 せめて隣が野郎であれ……。


「つか巧史朗こうしろう、お前サークル入らねーの? 年次も変わったし丁度よくね?」


 下ネタの切り出し方に頭を悩ませながら歩いていると、猿道が話題を振ってきた。


「あー、特に予定なしだけど、なんで?」

「そっか、ダメ元で聞くんだけどウチとかどうよ?」


 猿道さるみちはテニスサークルに入っている。高校時代はそれなりに大会で実績を残していたらしく、コイツは顔に似つかわずスポーツマンなのだ。そんな猿道からサークルへのお誘いとは、いったいどういう風の吹き回しだろうか?


「は? テニサー? いやいや俺スポーツとか無理よ」

「いや、それがさぁ。なーんか違うんだよ」

「違う?」

「そう。全然テニスやんねーの、あのサークル。飲み会ばっか」


 信じられるか? みたいな顔をコイツはしているが、俺としてはまぁ大学のサークルなんてそういうものだろうな程度の認識でしかなかった。ガチでやるような人達は〝部〟にいく。それが通例。


 それにコイツのサークル。

 あんまり良い噂を聞かないというか、多分 ────


「もしかしてヤリサーってやつなんじゃ」

「わかんねぇ、その割には全然出会いとかないんだわ」


「へぇ、女の子とか居ないんだ?」

「いやかなり居る。でも俺のことは眼中になしって感じ」 


 眼中になしねぇ。


 猿道さるみちは背が高く、健康的な小麦肌をしている。顔はまぁ、俺がジャガイモに間違えたくらいなのでイケメンじゃな……ワイルドだ。男らしいと言えよう。

 

 そしてなによりコイツは圧倒的に性格がよい。ヤリサーにガチでテニスをしに行ってる時点でその純粋さ具合はお察しである。


 つまり、別にモテていても不思議ではないのだが……。


「飲み会で声かけてみればいいじゃん」

「それがなぁ、ほとんど先輩のとこ行っちゃうんだよ女の子が」

「先輩……って」


 猿道さるみちのその発言に、俺の脳内では一つのシルエットが浮かび上がっていた。

 

「もしかしてあのキノ……チンコ?」

「ぶっ! いや、お前それ、絶対先輩に言うなよ?」

「誰か分かってる時点でお前も同罪な」


 誰かが言った。

 ウチの大学にはヤリチンセブンと呼ばれる七人のイケメン達が居ると。


 その一角。さらっさらな金髪のマッシュルームヘアーが特徴で〝千人切りの毒キノコ〟の異名を持つ男が猿道さるみちと同じテニスサークルに所属していることを俺は知っていた。


「とはいえ実際、可愛い子は全部、寿ことぶき先輩のとこに行っちゃうんだよ」

「へぇ、まぁ普通に顔はイケメンだもんな」

「いやぁ辛いよ? ちょっといいかなって思った子が先輩にお持ち帰りされていくの」


 とほほ、と肩を落とす猿道さるみちの話題に俺は少々面食らっていた。コイツの口からお持ち帰りだったり、女の子の話が出てくるとは……。いつもは田舎の愚痴か、都会に染まったぜマウントあたりが関の山なのに。


 確かに気を付けて観察してみると食堂に向かう途中、ちょいちょい猿道はすれ違うカワイイ女の子を目で追っていた。


 やっぱりコイツも男なのか……。ってまぁ彼女いない歴=年齢ズにはそろそろ限界だよな。気持ちは分かる。


「つか、今の話の流れでなんで俺を誘うん? 全く関係なかったろ」

「いや、巧史朗には俺が飲み会で孤立しないよう、一緒にいてほしい……」

「うわー……、絶対やだ。悲しすぎるそれ」

「ふっ」


 そうだよなぁと頷いた猿道さるみちは肩をすくめると、ため息を吐くように愚痴をこぼした。


「はぁ〜……まじでそろそろ彼女欲しいぜ」

「まぁ頑張れよ」


 軽く返したその言葉に、深い意味は無かった。

 本当にただ思ったことがポロリと出ただけ。


「は? 何だお前その余裕。まさか……彼女できた!?」

「いやいやいやいや、居ない。そういう意味じゃない」


「ほっ。焦ったぁ、先越されたのかと思ったわ。なんだよ頑張れよって、諦めたような言い方だな、巧史朗こうしろうは彼女欲しくねーの?」

「なわけ、絶賛俺も募集中だよ」


 夢の中でなら出来てたんだけど……。なんて言ったら笑われるだろうな。でもネタになるし後でコイツには話そう、盛大に笑ってもらわないとやってられん。


「だ、だよな。そうじゃなきゃ今日の合コンも参加するなんて言わねーよな」


「え?」

「ん?」


 本当にどこに行ったか俺の記憶力。


 猿道さるみちから放たれた言葉に俺は一切の心当たりがなかった。なかったが……。〝合コン〟という三文字のワードは、今朝の夢オチで傷ついた心を癒す最高の回復呪文だった。


 それはいつも食べている〝きつねうどん〟の食券ボタンに点いている、売り切れのランプが全く気にならないほどに。

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