第4話 時代
雨に濡れる街。
遠くからサイレンの音が響く。
暗い路地裏に、1台の黒塗りの高級車がひっそりと停められていた。
数発の銃弾が車体を貫き、助手席側の窓は無惨に砕け散っている。
車内には2人の遺体。
1人は運転席。
もう1人は後部座席──そこに崩れるようにもたれかかっていたのは、橘組組長、橘勝(たちばな・まさる)。
暗闇に濡れたスーツの胸元には、にじむような血の花が咲いていた。
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安ソファに沈んで、3本目の煙草を吸ってる。
雨音は途切れない。
……この事務所の雨漏り、まだ直してなかったな。
本家と違って、こっちは雑だ。
でも、その雑さが妙に落ち着くのも、俺の性分か。
⋯⋯いや、今日は落ち着かなくなる気がしやがる。
なんとなくな。
ドアが開いて、若いのが顔を出す。
声に迷いがあった。
「……カシラ」
目だけで促す。
奴はひと息置いてから続けた。
「噂が出てます。親父が──白梟会と、盃を交わすって」
その言葉に、体の奥が冷えた気がした。
「⋯⋯ウラ、取れてんのか?」
「……いえ。うちの補佐と白梟の若いのが動いてるって話が、外からいくつか入ってます。あと、それを聞いた暴対も動いてるって」
そうか。
それだけで、もう十分だった。
昔からそういう人間だった。
ギリギリまで自分で背負い込んで、最後だけ「殺すなら殺せ」って顔する。
……ずっと、それで俺らを引っ張ってきた。
あの人は、そういう人間だ。
俺が何を選ぶか、あの人は知ってる。
俺も、分かってる。
煙草を灰皿に押しつけて、立ち上がる。
ジャケットを羽織って、ドアに手をかけた。
後ろで若いのが黙って立っていた。
「……親父は、今どこだ」
「本部に。……一人で、です」
「そうか」
ドアを開けかけて、ひとつだけ背中で言った。
「──本当なら、俺がケジメをつける」
そう口にした時、妙に喉が乾いていた。
あの人を“親父”と呼べなくなったら──
俺は、俺じゃなくなる。
その前に、聞かなきゃいけない。
本部の部屋は静かだった。
葉巻の煙が立ち込めた先に、親父はいつも通りの顔で座っていた。
その姿を見た瞬間、少しだけ期待してしまった自分がいた。
──まさか、って。
──そんなわけが、って。
でも、言葉は止められなかった。
「……白梟会と、盃を交わすってのは……本当なんですか」
目を逸らさずに聞いた。
それでも、どこかで「違う」と言ってくれると信じてた。
親父は煙を吐いた。
そして、いつもの調子で返してきた。
「噂ってのは便利だな。火もねぇのに、勝手に煙を上げやがる」
冗談みたいな言い回しに、心がザラついた。
……否定は、しなかった。
「気に入らねぇなら、ここで殺せ」
目の前の男が、そう言った。
──試す時の声だ。昔からずっとそうだった。
でも、今回は違う。
今回は──本当に、“殺さなきゃならない理由”を言っている。
「白梟会がどんな連中か、親父が一番分かってるだろ!」
堰を切ったように言葉が出た。
「OSにタタキ、粉売ってやがる外道だ!それを“裏のエリート”なんて言う奴がいる時点で終わってんだよ!」
あの人の顔は、変わらない。
だから余計に、腹が立った。
「それが極道のやることかよ!“そうはなるな”って……あんたが誰より嫌ってた連中だろうが!」
身体が熱かった。
声が上ずってたかもしれない。
……でも、言わずにはいられなかった。
「……親父。カタにはめられてんじゃねぇのか?……誰かに、押し込まれて──仕方なく、そうしてるんじゃないのか?」
最後のひと押しだった。
自分でも分かってる。
これは“問い”じゃない。“願い”だ。
俺はただ、戻ってきて欲しかった。
少しの間があって──
親父は、煙をゆっくり吐いた。
そして、たった一言だけを置いた。
「……時代だ」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
分かった。
もう、戻らない。
この人は、もう──“あの親父”じゃない。
拳を握っても、震えるだけだった。
背中を向けて、ドアノブに手をかけた。
音を立てずに出ていくことだけが、最後の礼儀だった。
昨夜のことが頭から離れない。
親父のあの態度。
あれはマジだ。
俺はどうしたらいい⋯⋯
電話が鳴った。
誰の番号か分からないが受話器を取った。
「──もしもし」
第一声から、言葉に湿り気のある声だった。
丁寧すぎる口調が、逆に不穏だった。
「お忙しいところ失礼いたします。白梟会の金田と申します。神矢さんでいらっしゃいますか?」
若頭補佐が直々に⋯⋯筋を通したい相手──という演出は感じ取れる。
礼儀正しい声には、妙な自信が滲んでいた。
「……なんの用だ」
「少しだけ、お時間を頂ければと思いまして。
神矢さんと──二人きりでお話ししたいことがございます」
間髪入れず、応じた。
「お前と話すことは無い。あるならこれで済ませろ」
受話器を戻そうとした、その瞬間だった。
「まぁまぁ、そこを何とか。言葉では伝わらないこともあります。面と向かって、誠実にお話させていただければ、それで十分です」
声のトーンは崩さず、押し切ってくる。
まるで、話す前から結果を読まれているような手応え。
“これは一枚も二枚も上手だ”──そんな感触が背筋を冷やす。
だが、心のどこかで思っていた。
──話してみる価値はあるかもしれない。
何か、掴めるかもしれない。
「……場所は?」
「こちらでご用意いたします。
ご都合に合わせて、お時間を──」
通話を終えたあとも、しばらく沈黙が流れていた。
指先に、受話器の感触がまだ残っている。
背中越しに声がした。
「……カシラ?」
顔を上げると、若い衆が心配そうにこちらを見ていた。
「白梟会の金田って奴と、話してくる」
一瞬で空気が変わった。
もうひとりの若いのが、慌てたように声を上げる。
「金田?……あいつ、かなりキレ者でヤバいって噂が……“毒蛇”って、あだ名まで付いてますよ……!」
「それに、あっちのシマに行くんですよね⋯⋯大丈夫っすか?」
俺は立ち上がり、ジャケットの裾を軽く払った。
そして短く、静かに言った。
「一回話を聞くだけだ。……心配すんな」
事務所のドアを開けた先の空気は、やけに静かだった。
この先に何が待っているかなんて、分かるはずもないのに──
一歩踏み出す足は、やけに軽かった。
──雨の匂いが残る料亭の玄関。
下足番の目が一瞬だけこちらを測るように動いた。
案内係の女が、静かに廊下を歩く。
畳に沈む足音だけが耳に残る。
この空気……好きじゃない。
扉の前で一呼吸。 襖が静かに開いた。
通されたのは、奥の個室。
正座で待っていたのは、金田だ。
まだ若いが、目の奥に“色”が無い。
笑っているが、全く安心できない。
「ようこそお越しくださいました、神矢さん」
「白梟会若頭補佐、金田哲成(かねだ・てつなり)と申します」
その言葉と同時に、深く頭を下げる。
──礼儀正しい。
だが、手のひらの中に“牙”を隠しているタイプだ。
「他の方とお話するときは、決まってウチがケツ持ってるキャバクラに行くんですが……神矢さんはお好きでは無さそうでしたので」
俺は黙って座る。
この時点でもう、相手のペースだ。
金田は湯呑を置き、俺の方へ身体を向けた。
「本日は、私どもの申し出をお聞き届けいただき、誠にありがとうございます」
“完璧すぎる礼”。
それはもう、作法じゃなくて武器だ。
「……申し出、ね」
わざと引っかかる。
金田は微笑んだまま受け止めた。
「ええ、盃を交わすということは──血を分け合うということでございます。 しかし、今の時代、儀式は“意味”より“形”を優先することもございます」
「“形”だけで済むと思ってるのか」
「いえ、とんでもない」
首を下げる動作すら計算されたような滑らかさだ。
「だからこそ、神矢さんにこうしてお時間を頂いたのです」
「──我々は、敵意を持って橘組に近づいたわけではありません。 ただ、今のこの業界において、“生き残る道”を共に選べる相手を探していた。 ……それが、たまたま橘組だった。それだけのことです」
「……“たまたま”ね」
笑うしかなかった。
「本当にそうか? 橘が死ねば、あんたらにとっては都合がいい。 ……違うか?」
金田は笑みを崩さない。
「橘組がどうなるかは、橘組次第です。 ただ──神矢さん。 あなたには、もう少し広い視野を持っていただきたい」
“諭す”ような声音。
それが逆に苛立つ。
「あなたのような方が、この先の時代を生きていかれることを、私どもは本気で願っております」
毒を含んだ丁寧語。
分かってる。
こいつは“本気”で言ってる。
……その本気が一番厄介だ。
「たとえば──」
と、金田が続ける。
「橘組という名前が残ること。それを担うのが、あなたであること。我々が“敵”でなければ、これは“好機”でもあります」
「……利用する気か」
「利用とは言いません。ただ、あなたのような方が、“正しい場所”に立たれるなら…… それは、とても意義のあることだと思いませんか?」
俺は黙ったまま、湯呑を取った。
飲むふりだけして、視線は金田から外さなかった。そして、低く抑えた声で──言葉を落とす。
「……率直に聞くが。 ──親父を、カタにはめるつもりじゃないだろうな」
一拍の沈黙。
その間に、金田の笑みが、わずかに“揺れた”。
それでも、すぐに元の柔らかい表情に戻り──、静かに答える。
「そんな、物騒なことはしませんよ。ましてや、あの橘組組長を。そんな器用な真似、私にはできません」
その言葉に、俺は目を伏せた。 ほんの一瞬だけ、心のどこかが笑った。
──ああ、やっぱりだ。
そうだよな、金田。
お前は“直接手を下す”必要なんて、もう無い。
親父は、もう戻らない。
盃を交わしたその瞬間、すべてはお前らの筋書きの中にある。
暴れたところで、何も変わらねぇ。
一発ぶち込んだって、潰されるのはこっちだ。
それに──何より。
……あんな親父、見たくなかった。
仁義だの、筋だの、 俺たちにずっと語ってきた“あの人”が、白梟会なんぞの傘下に入るなんて。
俺は立ち上がった。
湯呑にも、手はつけなかった。
「……分かった。話は十分聞かせてもらった」
金田が何か言おうとしたが、その前に口を開く。
「金田、これ以上は、無駄だ」
──あとは、俺がけじめをつける。
そう心の中で呟いて、 襖を開けた。
翌日の夜、再び本部の扉を開けた。
足を踏み入れた瞬間、テレビの音が耳に飛び込んできた。
「おぉ……堂島がまたホームランだ。今シーズンは調子いいな」
親父の声だった。
背を向けたまま、画面の中の打者を見つめている。
「若いってのはいいな。根性がある奴は、やっぱり這い上がってくる」
俺は、黙って一歩、足を進めた。
「……親父、最後に聞かせてくれ。本当に、白梟会と盃を交わすのか」
その背中が動いた。
振り返らないまま、親父は言った。
「⋯⋯最後?」
俺は息を呑んだ。
その声色に、迷いはなかった。
だけど、どこか……寂しさのようなものも滲んでいた気がした。
「……親父、俺は──」
「やめとけ」
親父がかぶせるように言った。
「言葉なんて、余計なもんだ。やるか、やらねぇか。お前は昔から、そうだった」
振り返ったその顔に、もう“あの頃の親父”はいなかった。
──あの目に、俺は育てられた。
でも今は、俺を試す目じゃない。
俺を、突き放す目だった。
それでも──まだ、少しだけ縋りたくて。
「白梟会の金田に会った」
親父はこちらに身体を向けた。
「奴らは親父をカタにはめようとしてる。間違いない。なぁ親父、それでも盃交わすのかよ!」
俺は感情的になって、親父の胸ぐらを掴んだ。
「⋯⋯お前はどうするつもりだ?」
凄んだ親父の威圧感に押されそうになったが、無意識に言葉が出た。
「何も変わらねぇなら⋯⋯俺は親父を殺す」
「そうか⋯⋯じゃあ殺してみろ」
表情ひとつ変えず言い放った。
掴んでいた胸ぐらの力が、徐々に抜けていった。
拳を握る手が、震えていた。
──なんでだよ。
なんでそんな顔で言えるんだよ。
俺は、親父の目を見ていられなかった。
「……クソが」
呟くように吐いて、手を離した。
背を向けて歩き出す。
もう一度振り返ったら──きっと、殺せなくなる。
「慶太……」
背中越しに、親父が呼んだ。
「お前は……どこへでも行ける。だが、ここにいる限り、お前は俺の“若頭”だ」
俺は、返さなかった。
ただ足を止めずに、部屋を後にした。
外に出ると、雨は止んでいた。
その代わり、風が強くなっていた。
ビルの隙間を縫うように吹き抜けて、背広の裾をはためかせる。
歩きながら、煙草に火を点ける。
火が揺れて、うまく着かない。
「チッ、クソが」
仕方なくポケットにしまって、空を仰いだ。
──見上げた空は、ただただ灰色だった。
そのとき──視界の端で、何かが揺れた。
ビルの壁に貼られた、今にも剥がれそうな一枚のチラシ。
足が止まった。
なんとなく──そう、“なんとなく”──手を伸ばして、それを剥がした。
「あなたの記憶、喰います」
黒いマジックで走り書きされた文字。
いたずらか、占いか──
その程度の軽いノリに見えた。
だが──何の気なしにめくり、裏面を見た瞬間。
「目が合いましたね」
──ゾクリ、とした。
風が、急に冷たくなったような気がした。
いや、気のせいじゃない。
周囲の空気が、さっきまでと違っている。
瞬きの間に、背後の喧騒が消えた。
視界が灰色に染まり、足元の地面が“音”を失った。
気づくと、目の前に──
見たこともない“男”が立っていた。
笑っていた。
どこか、間の抜けたような顔で。
けれど、その瞳は一切笑っていなかった。
「久しぶりのお客さんだ〜」
「誰だてめぇは」
俺の声は思った以上に冷静だった。
だが、相手はまったく動じない。
むしろ、楽しげに肩をすくめた。
「僕ですか?ん〜……この世界だと“貘”って呼ばれてます」
「ばく……?」
「字で書くと“貘”ですね。記憶を喰う、って意味で。あ、でも漢字はどうでもいいか」
こいつは、ヤバい。
シャブでも食ったんだろうか。
「……組の人間か?」
「う〜ん、そういうのじゃないですねぇ。組も会社も、肩書きも⋯⋯あ、鬼畜美食家って肩書きでやってます。あ〜、やっと使う機会が来たなぁ⋯⋯強いて言えば“ご依頼人”の味方ですかね〜」
「依頼人……?」
「はい。あなたですよ、神矢慶太さん」
奴はニッと笑った。
口調だけは終始柔らかい。
「どうして俺の名前を……俺が、いつそんな依頼した」
「ふふっ、あれ?紙、持ってますよね?」
奴は顎で、俺の右手を指した。
見れば、まだ俺はチラシを握っていた。
「“記憶を喰ってください”って、これは立派な依頼のサインです」
「勝手に決めてんじゃねぇぞ」
「いえいえ、これでもルールはあるんです。目が合う、手に取る、裏を見る──3コンボ決まったら、成立なんですよ」
⋯⋯どうする?
サツの世話になる訳にはいかねぇし、チャカ使うなんて以ての外だ⋯⋯
「さぁ、どの記憶を喰いますか?」
「⋯⋯記憶を喰うってどういうことだ?」
「そのまんまの意味ですよ。記憶をパクッと喰うんです」
こいつは何言ってんだ?
そんな都合のいいことある訳ねぇだろ。
「う〜ん、信じてもらえないようなので、取りかかりますね。」
なっ、いつの間に間合いに⋯⋯
俺の額に手をかざすと、周りは黒一色に染まった。
視界が──暗い。
音もない。
まるで自分の内側に沈んでいくみたいだ。
「これは、“記憶の入り口”です」
奴の声だけが、耳元で響いた。
どこにも姿は見えない。
「こうなってしまったら拒否出来ません⋯⋯あっ、最初からか」
「……チッ、勝手にしろ」
すると、景色が──浮かび上がった。
夜の街、雨の匂い。
事務所の安ソファ。
灰皿の上で、火が消えかけた煙草。
そして、親父の背中。
橘勝。
あの人の記憶。
「さぁ、どの記憶を喰いましょうか?」
⋯⋯これで本当に記憶が消せるなんて思っちゃいねぇ。
正直親父を殺るなんて⋯⋯俺には出来ねぇ。
でも⋯⋯でも⋯⋯親父は親父のままでいて欲しい⋯⋯
「俺の親父⋯⋯橘勝の顔を喰ってくれ」
「ピンポイントな依頼もあるんだねぇ。分かったよ。いただきます⋯⋯」
──最初の出会い
スリだった。
いや、正確には、スリ未遂。
小銭入れを抜こうとした瞬間、気づかれた。
相手は酔ってたが、声は大きかった。 「おいガキ!この野郎!!」
商店街の通りが、一瞬でざわついた。
「チッ……!」
走った。
制服のシャツの裾が風でバタついて、 後ろから怒号と足音が追いかけてくる。
(このまま捕まれば、もう終わりだ)
逃げ場なんて、最初からなかった。
追い込まれた路地裏。
もう無理だと思ったときだった。
──バッ、と横から腕を引かれた。
驚く間もなかった。 強引に引きずりこまれたのは、 古びたシャッターの隙間から覗く、使われていないような倉庫の中。
「……なぁ、坊主。そんなんじゃ先がねぇぞ」
振り返ると、スーツ姿の男がいた。
眉間に皺を寄せ、咥え煙草のまま俺を見下ろしている。
怖い、と思った。
けど、怒ってはいなかった。
「……誰だよ、あんた」
「橘。……まぁ、そのうち覚えることになる名前さ」
外で足音が行き過ぎていく。
男──橘は、煙を吐きながら呟いた。
「運がよかったな。だが次は、誰も手ぇ出してくれねぇぞ」
その夜、俺は初めて“親父”に出会った。
──中学卒業して組に入った日
卒業式の日、誰よりも早く制服を脱いだ。 ボタンを外す手が、やけに落ち着いていたのを覚えてる。
「俺は、今日から“こっち側”の人間だ」
その足で事務所に向かった。
親父は、変わらぬ顔で言った。
「慶太……もう後戻りは出来ねぇぞ」
「分かってます」
その一言に、嘘はなかった。
……あのときだけは、何も迷ってなかった。
──みんなで楽しく飯食った日
本家での会合の後、珍しく親父が声をかけてきた。
「たまには、若いもんだけで飯でも行ってこい」
焼き肉屋の座敷に、煙と笑い声が充満していた。
「おい、神矢!米ばっか食ってんじゃねぇよ、肉焼け!」
「バカ、お前焦げてんじゃねぇか、こっち寄越せ!」
何でもない夜だった。
けど、あの時間は確かに“仲間”だった。
俺たちは、ただ笑ってた。
……誰一人、死ぬなんて思ってなかった。
──抗争で初めて人を殺した日
鉄の匂いが、鼻について離れなかった。
夜の川沿い、濡れたスニーカーの中で、足が震えていた。
「カシラ⋯⋯俺⋯⋯人を⋯⋯」
「……慶太、もう大丈夫だ。お前はやるべきことをやった」
親父が、そう言って背中を叩いてくれた。
「ビビらねぇ奴は、最初から終わってる」
その夜、俺は“線”を越えた。
そして、親父はそれを黙って受け止めてくれた。
俺がこの世界に入って泣いたのはこのときだけだ。
──シャバに戻って親父が直々に来てくれた日
何年かぶりに、鉄の扉の外に出た。
誰も来てねぇだろ、と思ってた。
迎えが来るとも思ってなかった。
でも──門の前に、黒のセダン。
運転席のドアが開いて──降りてきたのは、親父だった。
「慶太、お疲れさん」
それだけ言って、後部座席を開けた。 後で知ったが、親父が自ら迎えに来たのは、初めてのことだった。
「すまなかったな……お前を行かせちまって」
「いえ、俺のケジメです」
目を合わすと、親父はふっと笑って── 「なら、よし」って、それだけ言った。
その日だけは、親父の背中がやけに大きく見えた。
──親父が組長になった日
会合のあと、組長の座が引き継がれた。
親父はその日、新しい背広を着ていた。
似合ってなかった。
でも、やけに誇らしげだった。
「……今日から、お前らの“頭”はこの俺だ」
声が少しだけ震えていたのは、きっと俺だけが気づいた。
(この人を、俺が支える)
その時、心から思った。
──将来の夢を語り合った日
酔った勢いで、深夜の事務所の屋上。
「親父、夢とかあんのか?」
「……夢?」
「そうだなぁ、でっけぇ城でも建てて、みんなで住むとか」
親父は笑った。
「慶太、極道がそんなガキみたいな夢語っていいのか?」
「いーじゃねぇか、夢くらい」
親父は煙を吐いて、少しだけ遠くを見た。
「……戦争のない時代で、家族連れて堂々と歩ける街。それが俺の夢だった」
「……かっけぇじゃん」
「バカ」
ふたりで笑った。
……あの夜だけは、本当に“親子”だった気がする。
ひとつずつ、消えていく。
あの顔も、この顔も。
楽しかったあの日、辛かった日、嬉しかった日⋯⋯
全部あんたがいたなぁ⋯⋯
あぁ、あんたの顔、忘れちまった⋯⋯
「⋯⋯ごちそうさまでした」
そう言い残して奴は消えた。
気づけばさっきの路地にいた。
俺は───視界がぼやけていた。
⋯⋯泣いてるのか?
何でだ?何があった?
⋯⋯そんなことはどうでもいい。
俺は、橘勝を、殺す
俺は本部に向かった。
白梟会との盃は交わさせない。
俺は極道だ。
カタギに手ぇ出すような奴らと組む気なんか無ぇ。
橘勝。
お前は道を踏み外した。
お前は───親父でも何でも無ぇ。
ただの外道だ。
俺は一人で、チャカを手に本部にカチ込んだ。
「おい橘ぁ!出て来いコラァ!!」
「うるせぇぞコラァ!⋯⋯慶太?何しに来た?」
最初の威勢は何処に行きやがった?
俺の名前なんて呼びやがって。
「橘。お前を殺しに来た。白梟会との盃は交わさせねぇ。てめぇは何しようとしてんのか分かってんのかコラァ!」
「⋯⋯あぁ、分かってるよ」
あ?何でそんな悲しそうな顔をする?
「慶太、このご時世、ヤクザは肩身が狭い。俺は正直解散しようと思った。でも頭の悪い奴らばっかりの集まりだ。そんなことしたら路頭に迷っちまう」
「おい、綺麗事抜かすなよ。それが盃交わす理由になるか?」
「⋯⋯ならねぇな。橘の家紋、消したくねぇんだよ。俺だけじゃねぇ、皆で支えてきたこの家紋をよ」
「白梟会の傘下に入ったらそんなもん無くなる⋯⋯それでもか?」
「慶太⋯⋯お前に託そうと思ってた。お前ならそうなっても、歯食いしばってでも守ってくれると思った」
「……」
言葉にならなかった。
喉の奥から笑いのような、吐き気のような何かがこみ上げてきた。
「託すだと?お前が何を捨てたか分かって言ってんのか……?極道としての仁義だろうが!ケジメだろうが!全部……全部、見てきたんだぞ、俺は!」
拳が震えていた。 でも、声だけは潰れないように押し殺した。
「なぁ、親父──」
その言葉に、橘がわずかに顔を上げた。
「最後に、ひとつだけ答えてくれ」
「お前が俺の知ってる親父なら……あのとき、倉庫で俺をかばってくれたあんたは……どこに行っちまったんだよ」
ほんの一瞬だけ、橘の表情が揺れた。
「⋯⋯さぁな」
──あぁ、終わった。
「じゃあ、死ね」
チャカの銃口を向ける。
引き金を引く瞬間──何も見えなかった。
ただ、煙の中に揺れる“家紋”だけが、視界の隅に残った。
⋯⋯天井が見える。
そういや、ここの天井なんてちゃんと見たことなんて無かったな。
⋯⋯腹が痛ぇ。
誰だ撃ちやがったのは⋯⋯
「あ⋯⋯あ⋯⋯」
⋯⋯そりゃそうだ、組長が殺されそうなんだ、三下はビビって撃つよな⋯⋯
俺、何で撃てなかった?
手が震えてた。
「慶太、慶太!」
「⋯⋯うるせぇな。何だよ⋯⋯」
「お前、何でこんなことを⋯⋯」
「⋯⋯知らねぇふりすんじゃねぇよ⋯⋯仁義を貫く⋯⋯生き様⋯⋯見せてきたのは親父だ⋯⋯でもてめぇじゃねぇ⋯⋯」
「許せねぇんだよ⋯⋯何でも時代で⋯⋯誤魔化しやがって⋯⋯」
血の混じった唾が、口の端からこぼれる。
視界が霞む。
もう、何がどこにあるかもわからない。
「……何が、極道だ……」
視界の端で、組の連中が駆け寄ってきた。
橘も何かを叫んでる。
でももう、声なんか聞こえなかった。
屋上のあの日が、浮かぶ。
煙草を吹かしながら、夢を語っていた、あの夜。
『バカ』
そう言って笑った声。
⋯⋯そういや、記憶の声と橘の声が似てたなぁ。
俺の親父か?
んな訳ねぇか⋯⋯
「⋯⋯なぁ、あんた、誰なん⋯⋯だ?」
神矢慶太は死んだ。
仁義を信じた男の生き様が、この夜、終わった。
……そして、
その“結末”を、屋上の影から見下ろす者がいた。
「……ふーん、そうなるんだ」
月を背に、路地の上に立つ影。
貘は何の感情も見せず、ただそう呟いた。
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