ホロリング・フェアリーズ ― 螢幻境のゆらぎ ―

Algo Lighter アルゴライター

🌠 プロローグ:螢幻境以前

第0話:風がまだ言葉になる前

2032年。梅雨入り前の東京は、空気が湿り始めていた。

視神経直結ARレンズ《HoloDive α1》のユーザー試験が一部で始まり、街の景色は静かに変わりつつあった。


看板の広告が透過して揺れ、路上のピアノが譜面を投影する。

だけど、それらはまだ“未来”ではなかった。あくまで、見える人にしか見えないもの。

 

私、成瀬優衣はその日、少しだけ未来に触れる機会をもらっていた。

 

高校2年。将来は映像を仕事にしたいと思っていて、偶然受かったユーザー参加型のUI体験モニターにワクワクしていた。

最初に言われたのは、


「気になるものがあれば、全部記録してください。主観視野に出るもの、心のひっかかりでも構いません」


そうして手渡されたプロトレンズ。

視界の端に、柔らかい白いラインが常に流れていた。空間の温度や空気の流れ、心理的な“揺らぎ”を可視化するラインだったらしい。


私はそれが好きだった。

風の動きが目で見えるみたいで、呼吸が軽くなる気がしたから。


その日、私はテスト範囲の「代々木公園エリア」を歩いていた。

5月の終わり。夕方。陽射しが斜めになって、木々がきらきらしていた。


公園の池のそばに座って、レンズの録画モードをONにして、何も考えずに目を閉じてみた。

風が、髪を揺らす。頬を撫でる。シャッター音はないけれど、HoloDiveのログは記録を続けている。


そのとき。


――音でも光でもない、なにかの“気配”がした。

ほんの数秒。私の肩に、何かが「ふっ」と乗ったような感覚。

熱くも冷たくもない。重くも軽くもない。ただ、そこに“いる”ような感触だった。


私は慌てて目を開けた。


そこには、何もいなかった。

でも、ARラインは、はっきりと“渦”を描いていた。風の流れが、一点を中心に巻き込むように。


ログには残らなかった。

視覚記録にも、環境ログにも、その“なにか”は一切記録されていなかった。


ただ、私の心の中にだけ、それは刻まれた。


風がしゃべったような気がした。


それが“妖精”だったのか。

それとも、私の想像だったのか。

答えはわからない。でも、あれから私は、風が通るたびに、肩が気になるようになった。


テストの最終日に、アンケートがあった。


「記録中、特異な現象はありましたか?」


私はこう書いた。


「風の中に、誰かがいた気がしました。

目には見えなかったけど、“そこにいる”って感じました。」


開発側の返事はなかった。

でも私は、あの日の風が、本当に“誰か”だった気がしている。


あれから、映像を撮るのがもっと好きになった。

記録って、ただの記録じゃない。

目に見えないものを、「いた」と信じる方法だと思ったから。


あのときの私には、まだ「恐怖」はなかった。

「撮れなかったものを、残せなかったこと」が、どれだけ痛いかなんて――まだ知らなかった。


けれど、風はずっと、そこにいた。

私が記録する前から、記録しなくなったあとも。


あの気配が、本当に誰かだったなら。

――もう一度、ちゃんと、会って話したい。


それが、

私の最初の「願い」だったのかもしれない。


(▶第1話へ続く)

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