第十三話(終)
さっきはステージまでの距離と仁志の老眼で顔まではよく見えなかったが、しかし言われてみればたしかに背丈は同じだし、なにより、その声が本人だと証明していた。それにしても、なぜ皆本ユイが自分に話しかけてくるのか。いや、それ以前になぜ自分のことを知っているのか。仁志の頭にはいくつもの疑問符が浮かんでいた。
「あっ、もしかして私のこと忘れちゃってる? もう~!」
「いや、あの……すみません……」
「じゃあヒントあげますね! いきますよ。……せ~のっ!」
彼女は突然その場で深く腰を落とし、地面を蹴って跳び上がった。そして空中で大きく足を開き、両手を天高く掲げた。長い滞空時間は、まるで空に飾られた絵画のように完ぺきなポーズを空中に固定させた。仁志の頭の奥に記憶されていた、それとそっくりな別の絵画がピタリと重なった。
「えっ、あっ! あの時の……!?」
「ふふっ、思い出してくれました?」
二年前、みなとみらいで写真を撮りあった女の子。子どもはすぐに成長するとはいえ、言われてみればたしかに面影があった。
「あのとき、私が言ったこと覚えてますか? 夢、叶えたんですよ! オジサンに応援してもらったおかげでね!」
ユイは上目遣いで自慢げに笑って見せた。そうだ。あのとき、たしかに彼女は言った。いつかきっと子ども向けアニメの仕事をするのだと。
「ええ、もちろん。……よかったですね、本当に」
夢を見るのは自由だ。誰もが夢を見る権利を持っている。だが、多くの人がそれを叶えられないまま人生を終える。なぜなら夢には大きさに見合った努力が必要で、しかも努力は成功を保証しないからだ。そんな大きな夢に勇気を持って挑戦し、見事に勝ち得たユイを仁志は心から讃えた。
「でもオジサン、私を見に来てくれたわけじゃなかったんだ……」
ユイが、わざと拗ねたそぶりを見せていたずらっぽく言った。
「そ、それはどうもすみませんでした。もっとちゃんと調べておけば……」
「ううん! いいの! むしろ知らないで来てくれたって方が嬉しいかも! だって、あたし目当てじゃないってことは、オジサンが今でも変わらず女児アニメを卒業せずに観てくれてるってことだから!」
「……まあ、卒業どころか定年が近い歳ですから」
「ふふっ」
言って、二人で笑った。
「あのー……ところで、そっちの女の子は……?」
ふと、仁志の後ろに身を隠しているキラリの存在に気づいてユイが尋ねた。
「ああ、こちらは……」
仁志は哀澤にそうしたように、キラリのことは自分の姪だと紹介するつもりだった。……しかし。
「…………!」
「…………!」
キラリとユイ。導かれるようにふたりの目が合った。サングラス越しなど関係なく、お互いの瞳が運命的に惹かれ合い、視線と視線が正面から繋がった。見つめ合っていた時間はわずかだったかもしれない。しかしそれは万の言葉よりも雄弁な数秒だった。
「……キラリちゃん、だよね」
ユイの言葉は力強く、確信に満ちていた。ならば、応じねばならない。キラリは無言で帽子とサングラスを外して頷いた。この人に嘘や誤魔化しは必要ない。それもまた確信だった。
「……会いたかったよ、ずっと」
ユイの言葉には万感の思いが籠もっていた。二年前、『アイステ』歌唱担当オーディションに合格したときからずっと、ユイはキラリのことを考え続けてきた。夢に見た回数なんて数え切れない。この曲、キラリならどうやって歌うのだろう。キラリならどんなパフォーマンスで表現するのだろう。自分がキラリになるためにはどうればいいのだろう。ただそればかりを考え続けてきた。きっと、脚本家だって、声優だって、同じことを言うのだろう。けれど、それでも、だとしても、この世界で自分ほどキラリのことを想っている人間はいない。そう言い切れる自負がユイにはあった。だから、彼女が本物のキラリを間違えるはずがなかった。それはこの世界の常識やリアリティなんて軽く飛び越えた領域の感覚だった。
「来てくれてありがとうね」
そう言ってユイが差し出した手を、キラリはすぐに握り返せなかった。体の横に下ろされたまま固く握られた小さな拳は静かに震えていた。キラリは俯きながら声を振り絞った。
「……あたし、ユイさんのステージを観て感動しました。でも、それと同じくらい悔しかったんです。ステージの上のユイさんは、あたしが目指す姿そのものでした。元気の種をパアッと振り撒いて、みんなを笑顔にしていました。ああなりたい。ああならなくちゃいけない。……なのに、あたしはまだステージに立ったことすらない」
誰しも自身の理想と現実とのギャップを抱えて生きているものだが、それを直に見てしまう人間はいない。キラリにとって、これは大きなショックだった。
「そっか。キラリちゃんはまだこれからなんだね」
ユイが当たり前のようにさらりと言った。
「これから……?」
「そう、これから。私はキラリちゃんの少し先を歩いてるだけだよ。だから、すぐに追いつける。だって、それがキラリちゃんなんだから!」
「それが、あたし……」
「そうだよ! 言っとくけど私、キラリちゃんよりキラリちゃんのこと詳しいんだから!」
「な、なんですか、それ」
おかしな自慢で胸を張るユイに、キラリは思わず吹き出してしまった。このポジティブさが人を惹きつけるのだろうなと、仁志はユイのアイドルとしての才能を感じた。そして、彼女しかいないと思った。
「ユイさん、無理を承知でお願いがあります」
仁志の目は真剣だった。深々と頭を下げ、言った。
「この子を……キラリちゃんにレッスンしてあげてもらえませんか」
無茶な提案だった。ユイには日々アイドルとしての仕事があり、週末になればイベントで全国を行脚する。そんな多忙な彼女に個人レッスンを依頼するなど、常識で考えればあり得ないことだ。だが、仁志には頭を下げることしかできなかった。
「できることなら私がキラリさんを助けてあげたい。しかし、私は勉強は教えられても、アイドルを教えることはできない。……自分の無力さが本当に情けないと思います。だからこそ、それができる人が目の前にいる以上、無茶を承知でお願いするしかありません。ユイさん、どうかお願いします」
懇願する仁志を見てキラリは言葉が出なかった。自分の夢のためにここまでしてくれる大人がいるのだ。以前、夢園先輩が言っていた。アイドルは一人でなるものではない。ファンがいればなれるというものでもない。歌のレッスンができるのも、歌える舞台があるのも、歌を大勢のファンに届けられるのも、すべてはアイドルを支えてくれる大人たちがいるからなのだと。
「…………ダメだよ」
ユイが悲しそうな目をして答えた。
「……………………」
そして、下を向いたままの仁志の頬を両手で包み込み、その顔を上げさせた。
「私に頭なんて下げちゃダメ。オジサンが夢を後押ししてくれたおかげで、私は今ここにいるんだから」
「ユイさん……」
「それに! キラリちゃんと一緒にアイドルやれるなんて、言われなくたって私の方からお願いしますだよ! オジサン、私が一体どれだけキラリちゃんのこと好きかわかってないでしょ!?」
「す、すみません」
「ってことだから、キラリちゃん!」
「は、はいっ!」
「さっそく明日からビシバシ練習するからね! 言っとくけど、私のキラリちゃんに対する理想は高いよ!」
「はっ、はいぃ……!」
「ということで。あらためてよろしくね、キラリちゃん。それから……」
「高尾仁志です。今まで通りオジサンでいいですよ」
「うん! よろしくね、オジサン!」
この日から、ユイによる「キラリがキラリになるための」アイドルレッスンが始まった。
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