第31話 名前ヲクレタ人

お兄さんの声がした気がして振り返った。

真っ白な世界は上下左右が分からない。

これは12歳の冬の記憶か?

でも寒くはない。

むしろ少し暖かい。

心地いい風が吹いて、よりはっきりと声が聞こえた。


「咲守、こっちだ」


「お兄さん?」


やっぱりそうだ。

歩人のお兄さんの声がする。

僕は辺りを見渡した。


ゆっくりと視線を前に戻すと、いつの間にか白いベンチが現れ、座って手招きしているお兄さんがいた。


「お兄さん!!」


僕は嬉しくなって駆け寄った。


「お兄さん、こんなところで何してるの?歩人は?」


僕はまた辺りを見渡す。

歩人の影はない。


「いいから、座れ」


お兄さんの温かい手が僕の腕を引っ張った。

言われるがままベンチに座るとお兄さんがにっこりと笑った。


「もうちょっとだから、ここで一緒に待とうな」


「何が?」


にっこり笑うだけのお兄さん。

どういう事だろうか。


「ここ、どこ?」


「どこだろうな。俺も良くは分からない。でも、もう少ししたら、咲守は真っ直ぐ進むんだ。俺はここで見送る」


「お兄さんは一緒に行かないの?」


「あぁ。俺は涼子のところに戻るからな」


お義姉さん。

そういえばお義姉さんはどこだろう。


「お義姉さんはどこ?」


「あっち」


お兄さんは後ろを指さした。

どこまでも続く真っ白な世界。

お義姉さんはいない。


「僕もお義姉さんに会いたい。そっち行けないの?」


「咲守にはまだ早いな。まだまだ前に進まなきゃいけない。歩人が待ってるだろ?」


「歩人ならお兄さんを待ってるでしょ。どうして一緒に行けないの?」


ちょっと困った顔で笑うお兄さんは僕の頭を撫でた。


「また必ず会える。それまでは体大事に頑張るんだぞ」


意味が分からず眉根を顰めた瞬間、前から誰かの声が聞こえた。


「お。脳細胞が再構築され始めたか」


お兄さんは遠くの何かを見つめて言った。

脳細胞が再構築され始めた?

お兄さんの言葉を心でなぞった瞬間、暗い部屋で見た陰鬱なオレンジ色の光を思い出した。

あれは・・・なんだっけ。


「不本意かもしれないが、お前を助けるにはこれしかない。咲守は器用だからすぐに慣れるさ。でもあまり力を使いすぎるなよ。脳への負荷が大きすぎる」


お兄さんの言葉を聞いていると、段々と記憶が戻ってきた。

そうだ。

僕たちは透曄に拉致監禁されて・・・。


「お、お兄さん・・・。何を言ってるの?」


「お前を守るって言っただろう?」


僕はいつの間にか泣いていた。

記憶が今に追い付きつつある。


ユニットに縛られた体。

注射針付のチューブ。

チューブの先にある虹色のグリッターが漂う液体。

古い注射器。

朦朧とした意識の中で必死に何かを訴えていた自分。

薄らと見えた、項垂れたまま静かに眠る2人。



そうだ。

2人は僕を生かすために死んでしまったんだ・・・。


死んでしまったじゃないか!



「あ・・・僕・・・僕のせいで・・・」



血の気が引いた。

僕は・・・歩人になんて・・・謝ればいいんだ。


「気にするなって言ったろ?俺たちはただ一緒にいるだけなんだ。ようやくゆっくり2人で過ごせるようになったんだよ。咲守はあっちの世界でまだやる事がある。歩人もだ。雷と透曄を助けてやれ」


「雷と透曄を・・・助ける?」


「咲守は知ってるだろう?マチュア計画の子供たちがどんな目に遭ったか。愛情不足がどんな悲劇を起こすかを」


お兄さんは真っ直ぐに僕の目を見つめた。

確かに僕は知っている。

愛情不足は恐ろしい。

他者への思いやりが薄れ、自己肯定感が著しく低くなる。

自分の命も他人の命も羽のように軽くなって、どうでもよくなってしまう。

ただでさえ恵まれない幼少期だったのに、追い打ちをかけるように僕たちはラット扱いされた。

心の傷が生む悪夢は想像に難くない。


「雷と透曄はずっと1人だった。普通の双子だったなら姉弟寄り添って生きていけたのかもしれないが・・・なんせ1人の体だからな」


「二重人格・・・ではないの?」


「俺も涼子もそう思ってたんだけど、そうじゃないんだよ。あの子達は・・・・」


肝心な部分で急に大きな声が聞こえた。


『咲守くん!戻ってこい!みんな待ってるよ!』

『石岡!しっかりしろ!まだ事件は終わってねぇだろ!』


舜介くんと亨くんの声だった。


呼ばれてる。

2人はずっと僕を呼んでいる。

戻ってこいと何度も言っている。

そういえば、一色さんの声も聞こえてた気がする。

一緒にゲームしてくれるとかなんとか・・・。

僕はなぜかすぐに戻らないといけない焦りが出てきた。

皆のもとへ帰らなきゃ。


「お兄さん!僕もう行かないといけないみたい!」


焦った僕は咄嗟にお兄さんの手を握った。

どうしても一緒に帰りたかった。

またお兄さんの唐揚げを歩人に食べさせてやりたい。

また皆で食卓を囲みたかった。


「あぁ、そうだな。みんなが呼んでる。さぁ、いってこい」


お兄さんはゆっくりと手を解き、僕の頭を撫でた。

少し寂し気な笑顔には薄っすらと涙も見えた。


「お兄さんにはもう・・・会えないの?」


声が震える。

答えはYesだと分かっている。

でも、聞かずにはいられない。

僕はもっとお兄さんと話したかった。


一緒にいたかったんだ。


「会えるさ。お前たちが覚えててくれるなら、いつだって傍にいる。心の繋がりだ。俺たちは兄弟だろう?」


涙が溢れて止まらなかった。


そうだね。

僕たち兄弟だよね。


血のつながりはないけど、心はいつも傍にいる。

もう寄り添うことは出来なくても、互いを思い合ってる。

どこにいたってそれは変わらない。

例え肉体がなくても、そんなことは関係ないよね。


急に僕の体は前方に引っ張られ始めた。

腰が浮いて、強制的に歩き出した。

もう時間がない。

僕は後ろを振り返り、精一杯大きな声で言った。


「っ・・・。歩人のことは僕に任せて!必ず守る!お兄さんが僕を守ってくれたように!僕も”兄貴”だからね!」


後ろ向きのままどんどん前に引っ張られる。

僕はお兄さんに向かって大きく手を振った。


「あぁ、頼んだぞ咲守!いいか、2人とも幸せに生きてくれよ」


お兄さんも大きく手を振り返してくれた。


さよなら賢人兄ちゃん。


また会える日まで。


こんなに足りないものだらけの僕を”弟”にしてくれてどうもありがとう。


最期まで、僕たち弟を守ってくれて、本当にありがとう。


僕は涙を拭いて大きく頷き、前を向いて走り出した。

光の洪水が目の前に迫っている。


あの光を超えれば、僕は第二のマチュアとして目覚めることになるだろう。

随分と数奇な運命を与えられたものだ。

でも僕は負けない。


僕は1人じゃないから。

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