第5話 十年目の春
桜が咲きはじめた春の朝、小春は制服の袖を気にしながら鏡の前に立っていた。
ブレザーの肩が少しだけ大きく見える。
でも、それはもう、ランドセルを背負っていた頃の彼女ではないという証でもあった。
「どう?変じゃない?」
そう言ってくる声も、以前よりずっと落ち着いている。
僕はリビングから顔をのぞかせて、少しだけおどけて言った。
「似合ってる。ちょっと大人びたな」
「......ふふ、そう?」
小春は恥ずかしそうに目をそらしたが、その顔は嬉しさに満ちていた。
今日から彼女は高校生になる。
小さな手を握りしめていたあの日から、もう十年が経ったのだ。
この十年、僕たちは家族だった。
いくつもケンカをしたし、泣かせたし、泣かされた。
でも、離れたことは一度もなかった。
名前の綴りは違っても、血は繋がっていなくても、僕たちは一緒にここまで来た。
思い返すと、最初の頃は何もかもが不安だった。
彼女が泣けば僕も戸惑い、学校行事のたびに父兄の輪の中で場違いに感じたこともあった。
けれど、彼女の成長と共に僕自身も「家族」としての形を覚えていったように思う。
小春が初めて「お父さん」と呼んだ日も、小さなことで喧嘩して、僕が玄関で拗ねていたら、後ろからぽつんとその言葉が聞こえたのだった。
「ごめんね、お父さん」
その一言が、どれほど僕の支えになったことか。
小春はそんなこと、もう忘れているかもしれない。でも、僕の胸の中では、色あせることなく残っている。
朝食を終え、制服姿の小春が靴を履く後ろ姿を見ていると、胸がじんわりと熱くなった。
気づかれないように背中を向け、そっと玄関の棚から写真立てを取り出す。
十年前、親友夫婦の葬儀の日。
まだ五歳だった小春が、小さなワンピース姿で、ぽかんと空を見上げていた写真だ。
無意識に、あの日の小春と今の彼女の姿を重ねていた。
「......小春」
「なに?」
声をかけると、靴紐を結び終えた彼女が振り向いた。
「高校、楽しめよ。困ったことがあったら、ちゃんと話せ。お前にはもう、自分だけの世界があるかもしれないけど.....俺は、ずっとここにいるから」
その言葉に、小春は一瞬だけ目を見開いて、ふっと笑った。
「なにそれ。急に、重いし」
「そ、そうか??」
「でも、うん。ありがと。ちゃんと.....話すよ」
そう言って、小春はドアを開けた。
桜の花びらが舞い込む朝の光の中、制服のスカートが揺れる。
「じゃあ、行ってきます。.....お父さん」
その呼び方に、僕は答える前に、心の中で何かがほどけていくような気がした。
「行ってらっしゃい」
小春の背中が、通学路の向こうに消えていくまで、僕はしばらく玄関の前で立ち尽くしていた。
十年前、親友に託された命。
それはいつしか、僕の人生のすべてになっていた。
もう、僕たちは「育てる・育てられる」だけの関係じゃない。
互いに支え合い、笑い合い、ぶつかり合いながらも、確かに築いてきた…家族という形。
春の風が吹く。
その風に、小春の成長と、これまでのすべてを感じながら、僕はそっと目を閉じた。
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