第八話

最終下校ぎりぎりで、学校を出た。

季節のせいでまだ完全には暗くないはずなのに、すでに空気は夜の匂いを帯びていた。


そのままの流れで、私はゆりなを家まで送ることにした。

“自転車で怪我した”という彼女自身の言葉を理由にすれば、

半ば強引でも拒めないのは分かっていたから。


案の定、最初は何度も断ろうとしていたけれど、

最終的には大人しく、人と自転車ごと車に乗った。


車内で、

ゆりなが私の方を向いたのは、降りる直前の「ありがとうございました」だけ。

それ以外の時間はずっと窓の外──

誰にも触れられたくないように、

自分の殻の中に閉じこもったまま。


私は昔から、この車の中の静けさが好きだった。

一定の振動、規則正しい低音。

運転手の前では多少“お嬢様らしく”振る舞う必要があって、少し面倒だけど。

それでも、思考を整理したり、頭を空っぽにするには都合がいい。


そして、今は窓ガラスに映るゆりなの表情を観察できる時間も得た。

ドア側に縮こまり、肩を強張らせ、

こちらを絶対に見ようとしない落ち着かない視線。

まるで私との接触を徹底的に避けているみたいで……いや、実際そうなのかもしれない。


でも、理由なんてどうでもいい。


その反応が、たまらなく面白い。

あぁ、やっぱりゆりなって、私のために存在してるんじゃないかって思うくらい。

こんな可愛い反応を見せられたら、

おもちゃとしての価値はまだまだ十分。


退屈だった生活にやっと見つけたおもちゃなんだから、

勝手に鮮度を落とさないよう努力してくれればいい。


でも、こんなに近くに“おもちゃ”があるのに、

何ひとつ手を出せないなんて。

静かであればあるほど、胸の奥がざわざわしてくる。

この瞬間ばかりは、この空間が好きじゃなくなる。


触れられる距離にいるのに、何もできない苛立ち。

こんな気持ち、久しぶり。


車内の静けさが長引くたびに、

そのざわめきは熱を持って、身体のどこかを蝕んでいくようだった。


だから、彼女が降りたあと──

私はいつもの場所へ向かった。


──この熱を消すために。


湿り気と息遣いがこもる部屋で、

身体だけは流れに沿って動いているのに、

意識だけが別の場所を彷徨っていた。


指の下で滑ったタイツの感触。

首筋に触れた、彼女だけが持つ微かな匂い。

スカートの奥に閉じ込められた体温。

そして──ゆりなの反応を思い返すほど、

今の行為がどれだけ“的外れ”かがはっきりしてくる。


「なぁ凛々子、せっかくお前が乗ってきたんだし、もうちょい集中してくれよ?」


軽くて低い声。

今聞きたい“弱くて、でも少しだけ意地を張る声”じゃない。

西宮裕也──歳が少し上の、昔から家の縁で顔を合わせてきた男の声だ。


要するに、便利な相手。

“そういう時に使える存在”というだけ。


「うるさいな。好きにすれば。……疲れた」


主導権?

そんなもの今日に限って何の価値もない。

だってここに来た理由はただひとつ。

“代わり”を求めただけ。

どれだけ触れられても、代用品は代用品。


後ろから別の男が近づき、軽く腰を叩いてくる。

「じゃ、俺も混ざっていい?」

「好きにすれば。」


一人だろうと二人だろうと三人、四人──

この空虚さが満たされない限り、何も変わらない。


身体の揺れは確かに直接的な刺激を運んでくるけれど、

今ほしいものとはズレすぎていて笑えるほどだ。

せめて目を閉じて、意識だけどこか別の場所へ飛ばす。

いつものこと。


そうしようとしたとき、西宮が私の頬に手を添えてきた。


「どうした? なんか、機嫌悪そうだぞ」


「別に。学校のこと考えてただけ」


「そっか。何かあれば言えよ?」


勝手に顔を近づけてキスしようとする。

触れる寸前で手で止めた。


「今はしたくない。」

「はいはい。」


こいつはこういうところだけは察しがいい。

“身内”扱いの相手には無理強いはしないし、

……もちろん、勝手にやらかすほどバカでもない。


すべてが終わって、身体に微睡みが落ちてきたあと、

目を覚ましてシャワーへ向かうと誰もいなかった。


頭上から流れる熱い水を浴びながら、

ぼんやりと天井を眺める。

視界が曖昧に揺れて、

しばらくそのままで目を閉じ、手のひらで顔を覆い、流れる水をぬぐい落とす。


「……なにやってんの、私」


退屈を埋めるために来たはずなのに、

埋まらなかった何かを誤魔化す場所になっている。


タオルを巻き、鍵を開けて書斎へ向かう。

ここは、パパが私のために借りた部屋。

何日過ごしても文句は言われない。

本来はこんな使い方をする予定じゃなかったはずなのに。


けれど、ここへ来る連中は家の関係者ばかりで、

余計なことを口にするようなバカはいない。

──自分の立場を理解してるから。


家に帰っても誰もいないし、

パソコンを開いて気を紛らわせてもいい。

本棚の本を読んで静かに夜を過ごしてもいい。


けれど、視界の端に映ったカバンが、また図書室のことを引き戻してくる。


ページに残るゆりなの筆跡。

指でなぞりながら、あの数時間前の温度を思い返す。


「……やっぱり、代わりにはならないね」


あの続きを見たい。

この手で触れたら、

ゆりなはどんな顔をするんだろう。


太ももの傷も──

ほんとうは、もっと深く確かめたい。


そう考えながらスマホを手に取り、放課後に半ば強引に交換した連絡先を開く。


画面には『花園 ゆりな』。


短く文章を打ち込んで送信した。


『土曜の午前、駅前広場で待ってて』

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